森での狩猟許可は得ていた。
小屋に帰ってから、馬を置いて森を歩いて弓の試し打ちをしてみるつもりでいたら、鹿の親子と出くわした。素早く弓を構えて矢を放つと、矢は親の鹿の後ろ脚に当たった。逃げる鹿を追いかけながら追撃すると、後ろ脚を負傷して動きが鈍くなっていた鹿を仕留めることができた。
血抜きをして肩に担ぎ上げて持って帰るころには、小鹿は逃げていた。
それなりの大きさに育っていたので一匹でも生きてはいけるだろう。
小屋に帰って小屋の前で鹿を捌いているとライムントがやってきた。ライムントは辺境伯の後継者になったらどうするというようなことを聞いてきたが、ダミアンはそうなるとライムントとは遠く離れた存在になってしまうと考え始めていた。
騎士学校で親しくしてくれたとはいえ、元々ライムントは侯爵家の三男でダミアンのような平民とは縁遠い存在だった。それが親友として寮で同室になったり、カサンドラ騎士団でも同期として組んだりするようになったのは、異例のことなのだ。
「辺境伯の後継者とかなったら、ますます恋文が増えるんじゃないのか?」
捌いた鹿肉を燻製と干し肉に分けていくダミアンに、手伝いながらライムントが苦笑している。
「好きな相手からじゃないと恋文なんて嬉しいものじゃないですよ」
「そういう嬉しくなくて鬱陶しいしがらみがまた……。おれは橋渡しはしないからな! もう嫌だからな!」
王都でのことを思い出して身震いするダミアンに、ライムントは深く頷く。
「後継者の話を受けるとしても、結婚は愛する相手としかしないときっちりと伝えておかないといけませんね」
「貴族なのにそれが許されるのか?」
貴族は政略結婚をして当然というイメージのあったダミアンが問いかければ、ライムントは緑色の目を細める。
「叔父も好きな相手を口説き落として結婚しました。全然振り向いてくれなくて、その間結婚は断り続けていたんですよ」
辺境伯、イグナーツは伴侶を長期間かけて口説き落としたようだ。イグナーツの伴侶については町でも噂が流れていた。
辺境の軍を纏める司令官で、切れ者の軍人、ジークハルト・ブレヒャー。
イグナーツよりも二歳年上で、男性同士で、子どもはいないと聞いている。
「ジークハルトといえば、十数年前の辺境の隣国との小競り合いを治めた英雄だよな」
「英雄になる前から叔父はジークハルトのことが好きで、英雄になってから本格的に口説き始めて、十年前にやっと結婚してもらえたのだそうです。結婚したときから子どもは作らないという約束だったというのも聞きました」
「辺境伯が子どもは作らないって言えるのもすごいな」
高位の貴族ほど血縁関係を大事にするものだ。子どもを作らないとなると、親戚から養子をもらうしかない。それでライムントに話が回ってきたのかもしれない。
「鹿肉でシチューを作るつもりだけど、食べていくか?」
「食べたいです!」
干し肉と燻製肉にする部位は取り分けておいて、残りの部位を鍋に入れて野菜と共に炒めるダミアンに、ライムントは嬉しそうに返事をしてくれた。
買っていたパンがあるし、小麦粉や酵母菌も買って来ていたので、パンを焼くことも可能だ。冬場は雪が積もってなかなか町まで行けない日も出て来るだろう。そんな日は家の中のことをして過ごすのも悪くない。
自分のために時間を使える自由な暮らしに憧れていたので、ダミアンは小屋での暮らしに何の不自由も感じていなかった。
買って来ていた牛乳で炒めた小麦粉を溶かして、シチューのもとを作る。それを炒めた鹿肉と野菜に混ぜ合わせ、温めてシチューを完成させる。
できたてのホワイトシチューを深皿に入れて、ダミアンは暖炉の前のベンチに腰かけてライムントにもシチューとパンを渡した。
一応、小さいがテーブルと椅子はあるのだが、それよりも暖炉の火を見ながら食べる方が落ち着く。
何そな背もたれすらない木のベンチに二人並んで座って食べていると、ライムントがダミアンに言ってくる。
「ダミアンを叔父に紹介したいのですが」
「おれを? なんで?」
「それは……大好きなひとだからですよ」
「親友って、家族に紹介するようなものなのか」
ダミアンの頭の中に疑問符が浮かんでくるが、ライムントのことはダミアンの両親にも紹介したし、ライムントがダミアンを紹介したいと思うのも貴族の感覚としては普通なのかもしれない。
「辺境伯にお会いするのか。おれ、いい服持ってないぞ?」
「何を着ててもダミアンは素敵ですよ」
「ライムントみたいに顔面が強くないんだ、おれは。何を着てても平気なんてもんじゃない」
ライムントほど顔立ちが整っていれば何を着ていても気にならないかもしれないが、ダミアンはその辺にいるモブの顔なのである。ライムントはこれから辺境伯の後継者となって、この国にも貢献していくのだろうが、ダミアンは辺境の外れで動物を狩り、ジャガイモを育てるだけなのだ。
「そういえば、ダミアン。ジャガイモだけじゃなくて、キャベツも育ててみたらどうですか?」
「キャベツを?」
「ザワークラウトにしたら保存もきくし、いいじゃないですか」
辺境域のキャベツは他の地域のものと少し違うようだ。硬くてザワークラウトにしないと食べられない品種のようだった。
「ザワークラウトか。あれを腸詰と一緒にパンにはさむと美味しいんだよな」
「ザワークラウトの作り方を辺境伯家の料理人に聞いてみましょう」
「いいのか? それなら、色んな料理の方法が聞きたいな」
辺境伯家に行くのは乗り気ではなかったが、そういうオプションがついてくるならば悪くはないと思えてくる。ダミアンが身を乗り出すと、ライムントが美しく微笑みを浮かべる。
「ダミアン、お菓子も作りたいんじゃないですか?」
「そうなんだよ。でもレシピの載ってる本がなかなか売っていなくてな」
印刷技術が向上して、ある程度庶民にも本が行き渡るようになってきていたが、料理の本が大量にあるわけではない。特にお菓子のレシピなどは平民にはあまり一般的ではないので、ほとんどの本屋で売っていない。
売っているのは普通の食事用の料理のレシピがせいぜいだった。
「叔父の屋敷の料理人なら、お菓子作りも教えてくれると思いますよ」
「それは教わりたいな」
そのためには辺境伯家に通わなければいけないことになりそうだったが、レシピのためだったらダミアンは覚悟を決めることができた。
「ライムントの叔父さんのお屋敷に行ってもいいか?」
「もちろんですよ!」
嬉しそうに微笑むライムントに、ダミアンは何から教えてもらうか考えていた。
シチューを食べた後、紅茶を入れてダミアンとライムントは一緒に飲んだ。やはりこの紅茶には牛乳を入れた方が味がまろやかになってよく合う。
ライムントは手土産にドライフルーツを持って来てくれていた。
イチジクやレーズンを摘まみながら暖炉の火を見ながらミルクティーを飲む。
部屋の灯りは特に付けていなくて、暖炉の火だけがダミアンとライムントを照らしていた。
「鹿の皮を売りに行くときに、辺境伯のお屋敷に行かせてもらおうかな」
「いつ頃行く予定ですか? わたしも軍で働き始めるので、休みと合わないかもしれません」
「それなら、明日はどうかな?」
「明日なら、まだ軍で働き始めていないので時間が自由になります」
そういえば、とライムントが続ける。
「この小屋には風呂がありませんよね? わたしの軍の宿舎には風呂があるんですよ。わたしのお気に入りのシャンプーとボディソープとコンディショナーを揃えるつもりですし。よければわたしの部屋に風呂を借りに来ませんか?」
大衆浴場に通うのはお金のこともあるし、ダミアンは当面の風呂をどうしようかとは考えていた。たらいを買ってお湯を溜めて体を拭うくらいならできるが、ダミアンの体格だとたらいに入るわけにもいかない。
不衛生にしておくのはよくないし、数日に一度は風呂に入りたいのが本音だった。
「軍の宿舎に関係ない一般人が入り込んでいいものなのか?」
「宿舎には恋人を招く軍人もいると聞いています」
「おれは恋人じゃないけど……」
「それだけ自由だってことですよ」
ライムントの恋人ではないが、ライムントの部屋に行ってもいいのだろうか。
少し悩んだが、ただで風呂に入れるという誘惑にダミアンは負けた。