田舎で自給自足の暮らしをするのを、スローライフというらしい。
自分はスローライフに憧れていたのかとダミアンは納得する。
冬場は雪が積もって小屋では暮らしにくくなるので辺境伯のお屋敷で暮らすことになったが、春からはジャガイモの種イモを植えて本格的なスローライフが始められるだろう。
家庭菜園に種を植えてホウレンソウやブロッコリーや蕪やレタスを育て始めたあたりから、いや、もっと前に動物を獲って暮らしていたころからスローライフは始まっていたのかもしれない。
「スローライフか、いい響きだな」
外には雪が積もるようになってきている。まだ踏めば溶ける程度の雪だが、これが雪かきをしなければいけないほどに積もってくるのだという実感はない。
辺境伯のお屋敷の客間はきれいに整えられていて居心地がいいが、ダミアンはできる限りのことを自分でしたいとお願いしていた。
客間の掃除も、リネン類を取り替える作業も、全部自分でするつもりだ。辺境伯の客には体の大きいものもいるようで、大きなベッドでゆったりと寝られるのは嬉しいが、もっと簡素な使用人の部屋で構わないと伝えたところ、イグナーツとジークハルトだけでなくライムントにまで反対されてしまった。
「ライムントの親友を粗末な部屋に寝かせることはできない」
「ダミアンはライムントにとって大事なひとのようだからね」
「ダミアンはここを自分の家だと思ってくれていいのですよ」
自分の家だなんて思えるはずがないのだが、ライムントにまで言われてしまってダミアンは黙るしかない。
ダミアンの本当の家は狭くてダミアンのベッドもないような場所だったのだが、それをライムントは知っているはずだ。知っている上で、ダミアンに辺境伯家で我が家のように寛いでほしいと言っている。
「ディルク、この焼き菓子、どう思う?」
「フィナンシェはバターの香りがよく出ていて、しっとりとしてとても美味しくできていると思いますよ。フロランタンはサクサクでキャラメルも固まっていて上手にできていると思います」
厨房で焼き菓子を作っていたダミアンはできを聞くと、合格点が出た。
いそいそとワゴンを押して辺境伯の執務室に持って行く。
軍の仕事はしているが、辺境伯家の仕事もあるのでイグナーツとジークハルトが辺境伯家に一日いる日も珍しくはない。今日はその日なので、お茶の用意をして執務室に届ける。
ドアをノックするとイグナーツの返事があった。
「なにかな?」
「ダミアンです。お茶の用意をしてきました」
「どうぞ」
執務室の並んだ机について書類を処理していたイグナーツとジークハルトが応接用のソファに移る。ソファのローテーブルにお茶の用意をして、ダミアンが手際よく紅茶を入れる。
香り高い紅茶は辺境のもので、濃い目に味が出て、牛乳を入れるとよく合う。
「本日のお菓子はフィナンシェとフロランタンです」
「ダミアンが作ったのか?」
「ディルクに習いました」
「これは美味しそうだ。ライムントの分を取っておかないと、ライムントが拗ねそうだな」
笑って言うジークハルトにダミアンは苦笑する。ダミアンが辺境伯家に滞在するようになってから、ライムントは毎晩夕食を辺境伯家で食べていた。軍の宿舎には食堂が付いていて、夕食が出るはずなのだが、それよりもやはり辺境伯家の食事の方が美味しいのだろう。
ダミアンが作ったフィナンシェとフロランタンを取っておかないと拗ねるというのは、ライムントも甘いものが好きだからだろう。王都のカサンドラ騎士団にいたころは甘いものになど興味なさそうな顔をしていたライムントだったが、ダミアンが辺境伯家で作るようになってから妙に食べたがるようになっている。
「ライムントが甘いものが好きだなんて知りませんでしたよ」
騎士学校のときもダミアンの前でライムントが特に甘いものを選んでいた記憶はない。そのころは格好をつけたい年頃だったので、甘いものになど興味がないと見せたかったのかもしれない。
そう思うとライムントがかわいく思えてくる。
「ライムントが好きなのは甘いものじゃなくて……」
「イグナーツ、おれたちが言うのは野暮ってもんじゃないか」
「そうだね」
仲のいい辺境伯夫夫はお茶を飲みながら笑い合っている。
「ダミアンも一緒に食べよう」
「ティーカップもダミアンの分も用意してある」
確かにイグナーツとジークハルトの言う通り、ダミアンの分のティーカップも用意してあったので、ダミアンはお茶を注いで、ソファの端に座らせてもらって一緒にお茶をいただいた。
フィンガーサンドイッチと呼ばれる小さなサンドイッチもディルクは用意していて、甘いものの後にそれを食べるととても美味しく感じられる。
「田舎で自給自足で暮らすのをスローライフというのだとディルクが教えてくれました」
「ダミアンはスローライフがしたいのか」
「そうですね。自分の力で自由に生きていきたいです」
イグナーツの問いかけに答えると、ジークハルトが黒い目を丸くする。
「楽ではないと思うよ。ダミアンが住んでいる小屋の近くには魔物の出る森もあるし」
「あの森、危険なんですね」
「冬場は特に獲物が少なくなった魔物が出て来ることがある」
「それでライムントもここで暮らすように言ってきたんだろう」
ジークハルトとイグナーツの話を聞いて、ダミアンは背筋を伸ばす。
「おれもカサンドラ騎士団の一員で魔物を狩っていました。弓では手が出せないかもしれませんが、剣でならばそれなりに渡り合えるかもしれません」
「危険なことはしてほしくないな」
「ダミアンはライムントの大事なひとだからね」
ライムントの大事なひと。
親友というのはそれほど重要なポジションなのだろうか。
「ライムント、友達がいないから」
小さく呟くダミアンに、イグナーツとジークハルトがごふっとお茶を吹いた気配がした。噎せたのだろうか。
「騎士学校でも、おれ以外の友達を作れと言っても、ライムント、ずっとおれだけいればいいとか言ってたんですよ。困ったやつですよね。おれにはそれなりに友達がいたから、試験勉強とか一緒にやっていたのに、ライムントが『そのひとたちとじゃなくて、わたしとしましょう』とか言い出すし」
自分が友達を作りたくないのにダミアンを巻き込まないでほしかったと文句を言っていると、イグナーツとジークハルトの表情が微妙になってくる。
甥の悪口のようなものを聞かせてはいけなかっただろうか。
口を閉じたダミアンに、イグナーツとジークハルトが苦笑していた。
「ライムントも苦労するな」
「自業自得なのだろうけれど」
「そうなんです、ライムントが友達を作りたがらなかったから自業自得なのですよ」
うんうんと頷いて、サクサクのフロランタンを一つ齧ったダミアンに、イグナーツとジークハルトはそれ以上何も言わなかった。
夕食にはライムントが仕事を終えて辺境伯家にやってきた。
夕食の席に着くライムントにダミアンが給仕をしていると、ライムントが自分の横の席を示す。
「ダミアンも座ってください」
「おれはここで働かせてもらってるんだよ」
「いいではありませんか。一緒に食べましょう」
促されて迷っていると、イグナーツが給仕に命じてダミアンの料理を並べさせてしまう。
いつもこの調子で仕事が完遂できないのがダミアンの悩みだった。
「おれは使用人だと思ってくれていいのに」
「ダミアンはわたしの客人ですよ」
「働くのと引き換えにここに置いてもらっているんだよ」
「それは建前で……まぁ、ダミアンがそう言うなら、別のところで働いてください。食事は一緒にしましょう」
侯爵家の三男で、辺境伯家からも後継者となるように要請されているライムントは言うことが違う。ダミアンのような平民の感覚は分からないのかもしれない。
「本日のメインは、牛頬肉の赤ワイン煮込みです」
ディルクが説明すると、ライムントがダミアンの方を見る。
「ダミアンが作ってくれたんですね。楽しみです」
「ディルクに習ったんだから、ディルクの味になってると思うよ」
「ダミアンは料理上手になって、いい結婚相手になるでしょうね」
「結婚するつもりはないよ」
自分が恋愛する未来を考えられないダミアンに、ライムントは緑の目を細めている。相変わらずきれいな色だと思ってはいたが、ダミアンはそれを表現するだけの語彙がなかった。