日は海に溶け空より降りし帷が島を優しく包む。
島の輪郭が暮色に沈み、遠くカモメの鳴き声だけがかすかに響いていた。
「Sir…あの、少しだけ寄り道しても良いですか?」
モニター越しにアイが落ち着かない様子で申し出る。
「構わないけど…何処に行くんだい?」
「李(リィ)さん雑貨屋に…Sirの珈琲豆が…無くなりそうなので…良いですか…?」
「うん、断る理由は無いよ」
歳が微笑むと、アイはほっと胸を撫で下ろすように息を吐いた。
「ふふ、良かった!まだこの時間ならお店開いてると思います」
嬉しそうに言うその顔には、どこか隠しきれない期待が滲んでいた。
「アイ、本当は芽衣ちゃんに会いに行きたいんだろう?」
「え!?いえ…そんな事は…」
慌てて俯く様子が微笑ましい。
「彼女、君にとても懐いてるからね…」
「…はい…私が言うのも変ですけど、本当の妹みたいで…」
「うん、いいと思うよ…母親の居ない芽衣ちゃんにとっても君は心の支えだと思うよ…」
「すいませんSir…でも私にとっての一番はSirですから…!」
「ははっ、僕がヤキモチを妬いてる様に聞こえたかい?
…李とは古い付き合いだし、君も僕以外との交流は心の成長の良い機会だ…」
「ありがとうございます…Sir」
アイは嬉しそうに目的地を変更する。
都心部から離れたとある街の一角…そこはこの島で最も近付いてはいけないと言われるエリアである。
この一角はインフラが滞る貧民街であり、少し中に入ると薬漬けの人間が地面に横たわり、また口を開けたまま空を仰いでいる…反社会的組織の人間も多く出入りしており、平和と秩序から切り離された場所…そんな場所の雑居ビルに李の店はひっそりと佇む───
──アイは店の前の路上に車を寄せる──
「着いたね…」
──と、車から降りようとする歳をアイが止める。
「Sir、お待ちください…」
アイはそう言うと座席下から銃を取り出して左胸のホルスターに収め運転席から降りる。
静かにドアを閉め、銃把を握りながら周囲の状況を観察する。
(赤外線センサー…音響センサー……異常無し)
「Sir、大丈夫そうです…行きましょうか」
アイが窓越しにそう伝える。
「君は心配症だな、アイ」
笑ってそう言う歳に真剣な表情で答える。
「Sirは楽観的過ぎます」
そう言いながらアイが後部ドアを開ける。
「そうみたいだね…」
歳が苦笑いしながら車から降りると
車を施錠したアイは軽いため息を吐く──
──その時店のドアが少し開いて、小さな顔がこちらを覗いている。
「…やっぱり!アイお姉ちゃんだ!」
そう言ってドアから飛び出して来た小さい女の子がアイの足元に駆け寄って抱きつく。
「芽衣ちゃん!?」
突然の抱擁にアイは驚いた様子で目を見開いて狼狽える。
「こら!芽衣!勝手に外に出たら危ないだろう!」
店の中から声がして、ひょろっとした髭を生やした中年男性が顔を出す。男はよれよれの服を着て髪の毛はぼさぼさである。
「やあ、李、久しぶりだね」
歳はそう言って男に手を振って合図する。
「おお、日出じゃないか、久しぶりだな…!アイちゃんも…さぁ二人とも早く中に入って…」
そう言って手で中に入る様に急かす。
──中に入ると独特の香りが漂っている…店内には漢方薬の材料や工具、珍しいアクセサリー等、様々な物が置かれている。
「まぁ適当に寛いでくれよ」
そう言うと李は小さな椅子を差し出す。
「いや、大丈夫だよ、ありがとう。今日も珈琲の豆を買いに来たんだ」
それを聞くと李は苦笑しながら椅子を引っ込める。
「そうかい、毎度こんな場所によく買いに来るよ…ちょっと待ってくれ、今奥の在庫を見てくるから」
そう言うと李は品物を探しに店の奥に下がって行く。
歳が店内に目をやるとアイと芽衣が楽しそうに話しているのが見える。
「アイお姉ちゃん…今日も芽衣にお話してくれる?」
「うん、勿論、喜んで…前は何のお話だったかしら?」
「人魚姫…でも人魚姫は最後は泡になって消えちゃうんだよね…」
そう言って少し寂しそうな芽衣。
それを見てアイは少し考える…ふと芽衣の腕のブレスレットに目が止まる…。
「…芽衣ちゃん、そのブレスレット…変わったモチーフね」
アイがそう尋ねると芽衣は得意げに答える。
「これはね…ブリキの木こり!パパがね、私にくれたの、いいでしょ」
「うん…とても素敵なブレスレット…」
(…ブリキの…木こり…)
アイがブリキの木こりについてデータベースを高速で検索する…オズの魔法使い、マンチキンの森、錆び付いた身体、元は人間、愛する恋人、魔女に奪われた心、心を取り戻す為の旅…
「ねぇ、芽衣ちゃん…オズの魔法使いって知ってる?」
「…オズの魔法使い…?」
「そう…灰色の荒野に住む少女、ドロシーが竜巻で魔法の国、マンチキンに飛ばされて冒険するお話…ブリキの木こりはね…その中の登場人物でドロシーのお友達なの」
そう聞いて、芽衣は目を輝かせている。
「それじゃあ今日はオズの魔法使いをお話ししてあげる」
眼を輝かせる小さな少女にアイが物語を語り始める──
歳がその様子を横目で優しく見守っていると、奥から李が麻の袋をひとつ抱えて戻って来た。
「悪いな、歳…今はこれしか無かったよ」
そう言って麻袋を歳に手渡す。
ずっしりとした中々の重さが歳の腕に伝わる。
「ありがとう…十分だよ、インスタントじゃない豆は中々手に入らなくてね」
「こんな世の中だ、それだってお前の為に取っておいたんだ、ありがたく思えよ」
李はそう言って笑う。
「すまないね李、何時も感謝してるよ」
懐から紙幣の束を取り出して李に手渡す。
「おいおい、これはちょっと多過ぎるだろ」
慌てて返そうとするがそれを歳は手で制して
「良いんだよ、芽衣ちゃんと何か美味しい物でも食べに行ったらいいさ…それに、紙幣は今使える場所が少ないからさ」
そう言って紙幣の束を握らせる。
「日出…お前は本当に昔から変わらないな…ありがとう…」
そう言って李は深く感謝の意を込めて頭を下げる。
「独りで小さい子供の面倒を見るのは色々と大変だろう…?」
「まぁそう、だな。でもお前だって…」
そう言いかけて李は口をつぐむ。
「…気にするな…僕には今はアイが居るからね…」
店の片隅で小さな少女に物語を語るアイはとても嬉しそうで、生き生きとした顔をしている。
「アイちゃんは良い子だよ、芽衣はアイちゃんが大好きなんだ…何時も次はいつ来るのか私に聞くんだよ」
アイの物語に聞き入っている愛娘を見つめながら嬉しそうに微笑む。
「ここに使いに出す様になってからアイの感情はとても豊かになったよ…きっと芽衣ちゃんとの交流はアイにとっても特別な時間なんだろうね…」
歳はアイの様子を感慨深そうに眺める──
────その時店の奥で来客を知らせるベルが鳴る
「…すまない、客の様だ…少し芽衣を見てて貰えるか?もし表の客が来たら芽衣に任せてくれれば良い…悪いな…」
李はそう言って足早に、店裏に消えて行く──。
歳は複雑な顔をしてその背中を見送る…。
店内には物語を語るアイの声だけが静かに響く──。