李は裏口の脇にある物置きのノブを回す…鈍い音と共にかび臭い匂いが鼻を刺す。物置きの壁に穴を開けて作った小窓がある。椅子に腰掛け小窓を開ける。
…外には見慣れない客が立っている…
…細くて異様に背の高い女性…の様だが逆光で顔が黒く落ち窪んで見える…。
「ええっと…誰の紹介だい?」
李の質問に無言で李の前に手を置く、筋張っていて血の気がない細長い指、思わず鳥肌が立つ。
「薬の処方なら一見の客には無理だ…」
「李俊宇(リージュンユー)だな」
被せる様に言うとゆっくり手を退ける、そこには金貨が三枚置かれている──大きさから一枚100g以上…燻んだ光沢から高い純度の物だと分かる。
「おいおい、これだけの物を買い取る金は今は無い…」
「李芽衣を売って欲しい」
また被せる様に信じられない事を言い放つ─
「な、頭がおかしいのか?娘は売り物じゃない!帰ってくれ…」
ジャラリとさらに五枚の金貨が置かれる。
生唾を飲み金貨を手に取る、ズシリとした重みが裏の目利きとして生きてきた李に、それが本物である事を告げている。
「ばかな…そんな事、許されるはずが…」
ジャラッ─更に五枚……。
「ずっとこんな場所で、下水を這う虫のように生きたいのか?この金でもっと裕福で安全な場所に暮らせる…妻もきっと戻ってくる…子は、その後でまた作れば良かろう……違うかい?」
……裕福で安全な暮らし……妻と……芽衣を売る?…目の前に積まれた金塊は男の心をミキサーの様に掻き混ぜる。
チャリ…更に二枚…そして悪魔のように囁く。
「…何もとっても喰おうと言う訳ではない…安心しろ…ただ、養女に出すと、そう思えば良い…これは前金だ…」
そう言うと不気味な女は踵を返す。
「ま、待ってくれ!まだ…」
李はその先の言葉を発するのを躊躇う自分に嫌悪感を覚えるが、目の前のそれが喉を詰まらせる。
「…君の心に安らぎを…李俊宇…」
彼女はそう囁き闇に溶けて消える──
───部屋の中には寝かしつける様に物語を語るアイと彼女を信頼と尊敬の眼差しで聞き入る芽衣、そしてそれを傍で見守る歳が欠伸をしている。
ガラッと引き戸が空いて李が浮かない顔で戻る。
「すまないな…待たせた…」
「ああ、いや、問題無いよ」
彼が裏で漢方薬と称して薬を売っている事は知っている…しかしこの貧しい親子に倫理を説くのは残酷というものだと歳は思い、見て見ぬふりをする。それが彼なりの優しさ。
「日出…悪いがそろそろ店を閉めるよ、アイちゃんも芽衣の事…ありがとう」
芽衣はまだ話の途中なのに、といった顔でふくれる。
「大丈夫、私の記憶に栞を挟んでおくから…次に来た時に…ね」
「うん…きっとだよ…」
芽衣は渋々椅子から立ち上がるとアイの腰に抱きつく。
「アイお姉ちゃん、好き…」
素直な愛情表現に最初驚くアイだったが、次第に顔が綻び笑顔になる。
「私も好きです…芽衣…」
嬉しそうに笑う芽衣。
…妻が逃げてから人前で笑う事は無くなった娘の笑顔──李は父親として自分を不甲斐無く思い下唇を噛む。
「さあ、芽衣…アイちゃんも困ってる…」
そう告げると名残惜しそうにうなづく。
「また…来てね…お姉ちゃん…」
アイも名残惜しそうにうなづき立ち上がる。
「ありがとう、李。こんな遅い時間まで邪魔したね」
「いや、此方こそ…。あのさ…」
複雑な思いが彼の心の中で台詞のない劇の様に繰り返される。
「いや…また来てくれよな。お前のためにまた仕入れとくから」
「ああ、また頼むよ。芽衣ちゃんも元気で」
彼女はアイの陰に隠れながら恐る恐るうなづく。
アイは目線を芽衣に合わせ、頭を優しく撫で微笑みながら別れの言葉を告げる。
──芽衣はアイがもし自分の母さんだったら─と心の奥でそっと願った。
そして彼女の物語を感じる様に木こりのブレスレットにそっと触れた。
「じゃあ失礼するよ」
そう言って2人は店から出ていく──
──店内に静けさと寂しさを取り残して──
───クラシックの旋律が静かに流れる車内──アイは満ち足りた顔で車を走らせる。窓に映るその柔らかな表情に心がほんのり温かくそして少しの寂しさを感じる。それはまるで成長する子を見守る父親のようだと歳は感じ、そして静けさに身を委ね、少しの間瞼を閉じた。