車に揺られ、まどろみの中──思い出すあの日の記憶──アイが僕の元にやって来た日の事───
─────あの…
隣に座る少女が話しかけてくる。
「私は貴方の事を何とお呼びすれば良いですか?」
率直な質問だ。僕は彼女にアイと名付けたが、彼女は僕の事を何も知らない。いや、知ってはいるはずだ。
何しろ彼女は僕の以前の恋人…青海藍の記憶を持っているのだから。
「そうだね」
僕は少し考える……以前彼女がそう呼んでくれた呼び方……今はその方が今はしっくりくると、そう思った。
「じゃあとりあえず、僕の事はSir、と呼んでくれるかい?」
「はい、承知いたしました……Sir……」
そう言ってやや社交的に微笑む顔は、不安と緊張、そして期待を入れてかき混ぜた珈琲の様に複雑な色を浮かべている。
空には青いキャンパスに夏の雲がうず高く積まれている──僕らを乗せた車はAIナビゲーターの操縦で僕のオフィスへと向かっている。
僕の横に座る彼女はアンドロイドとは思えない顔立ちで前をじっと見据えている。
人間の記憶を持たされて、さらにその記憶の持ち主の恋人の元へ送られる彼女は、今どんな気持ちなのだろう…。
僕の研究者としての好奇心と彼女の中の藍への切なさが混ざり合い、心の画用紙に複雑な色彩を描き出す。
「アイ、君に幾つか聞きたい事があるんだ……答えてくれるかい?」
普通初対面の女性にこんな事を聞くと訝しがられるものだ。僕の今までの経験がそう告げた。
しかし彼女は嬉しそうに笑って小さく頷いた。
子供の様に素直に感情を表すアイ。
僕は自分の歪んだ認識のズレに気恥ずかしくなる。
「ああ、それじゃあ…自己紹介から…」
僕は気持ちを紛らわす様につい無難な言葉を選ぶ…いつからだろう…こんなに人付き合いが不器用になったのは…。
「僕の名前は、ひので、としだよ。覚えておいて」
「はい、Sir。Sirのお名前、心の奥に確かに記憶しました」アイは大切な物をしまう様に手を胸に当てる。
その純粋な仕草が澱んでいた僕の心に少しずつ流れを生み出すように感じる……。
「僕は今、アーカーシャ記憶工学研究所(Akasha Institute of Memory Engineering)
通称エイム(AIME)と言う機関に所属している」
アイが聞き取りやすいようにゆっくりと丁寧に話す。
彼女は一言一句逃さず聞き取ろうと真剣に耳を傾ける。
「アーカーシャ記憶工学研究所…通称エイム…Sir…確かに記憶しました」
「後は、そうだな……僕の趣味は……クラシックを聴きながら読書をする事」
そう言って懐に隠してある小冊子を見せる。
本には[The Evolution of AI 著Oliv.Z]と書かれている。
「それは……」
彼女は興味深そうに僕の手にある物に目を向ける。
「本は好きかい?」
「はい!私は本や著作物を読むのがとても好きです」
「それは良かった。オフィスには僕の蔵書棚が沢山ある。帰ったら好きに読むと良い」
そう言って彼女に本を手渡す。
アイは目を見開き喜びを表現する。
表情はまだぎこちないが彼女の心の声はそこらの携帯端末の音声よりクリアに聞こえる。
彼女は器用に指先で本のページを捲りだす。
凄い速度でページの残りが音を立ててすり減ってゆき──3分と待たずに数百ページの本が彼女の頭に収まった。
「ありがとうございます」
彼女は笑顔で本を僕に手渡し、僕は呆気に取られながらそれを受け取る。
本が好きで紙の本を愛用して長いが、僕が必死に捲ってもこんな芸当は無理だろう。
「こんなに器用なアンドロイドは初めて見たよ」
僕がそう言って驚くと彼女もまた目をぱちくりして自分の手を見ている。
「Sir、私の指先はヤモリの原理を応用して物を掴みやすく出来てるみたいです」
彼女はそう言って僕にてのひらを閉じたり開いたりして見せる。
「ぷっ!」
その的を外した回答と可愛らしい仕草に思わず吹き出してしまう。
「君はとてもユーモアセンスがあるね」
よく理解出来ずきょとんとしている顔がまた可愛らしい。
「私……何か変な事を言いましたか?」
そう言って不安そうな顔をしている。
「いや、ごめんよ……悪い意味じゃ無いんだ」
そう言いながら自分が笑っている事に気付く。僕はどうやら笑い方を忘れていたらしい。
「ふふ……それなら、良かったです」
笑い方は目の前で少し不器用に微笑む彼女が思い出させてくれたようだ。
「ねぇ、アイ…コーヒーの淹れ方……分かる?」
「いいえ、Sir……でも……頑張って、おぼえます」
それから彼女は僕の為にコーヒーのおいしい淹れ方を研究する──最初は豆を挽かずにお湯をかけてみたり失敗を繰り返し少しづつ自分で考えて工夫する事を覚えていった──
「Sir…今回のは自信作です」
「…うん、これは…」
たまに謎の味がする事もあるけど……
そんなアイとの対話は確かな安らぎと心の堆積した澱み全てを押し流した──
────…
─────Sir…!
──重たい瞼を開ける。
そこには何時もと同じ、優しい笑顔で僕を見つめる彼女がいる。
「おはようございます。着きましたよ、Sir…」
「ありがとう…アイ…」
──部屋に戻りアイの淹れたコーヒーを飲む。
部屋には控えめにクラシック音楽が流れ、アイは蔵書棚の本を読んでいる。
アイの淹れたコーヒーは少しの苦味とたくさんの愛情の味がした……。