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3章 第5話 冷めたコーヒー

「おはようございます、日出主任」

厚い書類束を片手に持ったエミリアがドアを開ける。


「やあ、おはよう、エミリア……」

そう言いながら歳は眠るアイの隣でコンピュータに何かを打ち込んでいる。


アイが意識を失ってからもう4日が経つ。


相変わらず意識を戻す様子は無い。


たまに何かを感じた様に手足や瞼が微動する事があり、それが彼女が生きていると思えるせめてもの救いだった。


アイは昨日の朝に、治療用ポッドからメディカルルームの精密分析用のポッドに移され、記憶領域内部の精密なデータ測定が行われていた。


オクタグラムに表示された彼女のこれまでの感情データを数値化したグラフと、徐々に変化する記憶領域内のニューロンネットワーク情報が、コンピュータの隣に並べられた出力装置の上でゆっくりと回っている。


ニューロンネットワークはアイのこれまで経験した刺激の情報をアイが自動で脳内に記録した物で、見た目は人間の頭部と脳のモデルと酷似しており、その中に無数のニューロンポイントと呼ばれる光点とそれらを結ぶ光線で構成されている。


その回るホログラムモデルを横目に歳はまたキーボードで何かを打ち込んでいる。


すると眠るアイの瞼がぴくぴくと反応を示す。


「ねえ……何をしているの?」

エミリアがその様子を不思議そうに見ながら尋ねる。


「今アイと対話してるんだよ」

彼は少し表情を緩めながらそう言う。


「対話?……そんな事が出来るの?」

エミリアは椅子を持ってき座り、少し冷めた様子で足を組みながらコーヒーを飲んでいる。


「うん、まぁ……ほんの少しだけどね」

そう言いながら歳の指はまたカタカタと小気味良い音を響かせる。

キーボードの横には口を付けていない冷めたコーヒーが置かれている。


エミリアが少し興味ありげに立ち上がり、画面を覗き込む。チャットの履歴を目で追うがその内容は、ただの挨拶や簡単な質問だけ。

アイの反応も“はい“や“いいえ“等とても簡素なものだ。


「……なるほどね、記憶領域を介さないベースの対話機能なら簡単なコミニュケーションが取れる訳ね……でもそんな事してて楽しい?」

また彼女は冷めた様な目で歳を見ている。


「僕は彼女と意思の疎通が取れるだけで十分だよ……」

そう呟いてまた画面に定型的な文字列が並ぶ。


──アイ、今日は天気がいいよ


──YES、Sir、それは良い事です


──アイ、君は目を覚ませそう?


──NO、Sir、分かりません


──分かったよ、アイ、ゆっくりおやすみ


──YES、Sir、ありがとうございます


簡単な対話を終えて歳が背もたれに深く寄りかかる。

大きなため息をついて、冷めたコーヒーを手に取る。


その時、誰かがメディカルルームのドアをノックする────


カチャリとドアを開けて銀髪で眼鏡を掛けた人の良さそうな紳士がゆっくり部屋に入ってくる。


「これは、ズー所長、おはようございます」

エミリアが向き直り軽く会釈をする。


「ああ、おはよう、エミリア君、……それと日出主任……プロトタイプの様子はどうかね?」

彼は色の付いたメガネの奥から優しく目を細めながらそう聞いた。


「おはようございます、ズー所長、アイはまだ……」

歳はそう言いかけてアイに目を落とす。


「そうか……君達もあまり無理はしないように」

そう言って机に鈍い金色のIDカードを置く。


「君達が優先して使えるように許可証を発行した。

研究設備は自由に使ってくれたまえ。

そのプライオリティIDはその子が目覚めたら返してくれれば良い……それでは、私は失礼するよ」

礼を述べる二人を一瞥して、彼は少し微笑みながら部屋を後にした。


「……ズー所長、素敵よね……とても紳士的で……」

彼を見送った後エミリアがそう呟く。


「ああいう感じの人がタイプなのかい?」

からかい気味に言う。


「別にそういう意味じゃないわ……」

彼女はまた冷めた目で見下ろす。


「僕も似たタイプだと思うけど……」

冗談ぽくそう言う。


「あなたは駄目ね……浮気性だもの……

知ってる?ズー所長、奥さんと別れてからもずっと他の人と付き合わないで独り身だそうよ。

一途な人って素敵よね……」


「僕は別に浮気性じゃないよ……」

心に少し引っ掛かりを感じながら一応そう否定しておく。


──!

また扉をノックする音。


「はい」

エミリアが応える。

すると恐る恐るドアが開いて、縮れ毛の気弱そうな若い男性研究員が顔を覗かせる。


「あ、あの……ハース主任……ち、ちょっとよろしいですか……?」

彼はびくびくしながらエミリアに尋ねる。


「あらリチャード……何の用?」


「さ、さっきそこでズー所長と、すれ違ったんですけど……」

何かを言いたそうにどもりながら口籠る。


「何よ?何か言いたい事があるならはっきり言いなさいと何時も言ってるわよね?リチャード」

少し高圧的な口調で彼にそう言う。


「まぁ、エミリア、彼、何か話があるみたいだし中に入ってもらってゆっくり話そう」


エミリアは小さくため息をついて彼に道を開ける。

リチャードは肩をすぼめながら恐る恐る部屋に足を踏み入れる。


「す、すいません……あ、日出主任……ですよね?あなたの論文読みました……後でサイン貰っても……」


「ちょっと!リチャード……!……さっさと入りなさい」

エミリアが低く怒鳴りつける。


「ひっ……すいません、ハース主任!」

彼は急いで部屋の中に入ると怯えた様に隅の方で腕を抱えている。


「で?何の話かしら?」

扉を閉めながらエミリアがリチャードに問いかける。

リチャードは辺りを見回して何かを警戒する様な素振りを見せながら二人に近づく。


「あの……僕見ちゃったんですよ……」

彼は監視カメラを気にするようにカメラに背を向けて小声で話し出す。


「何を?」

エミリアが聞く。


「ズー所長ですよ……!四日前のあの日……上の展望エリアで……」


「あの人はここの所長なんだから展望エリアで観ていてもおかしくはないでしょ?」


「違うんです……違ったんですよ……雰囲気が、全然、別人だったんです……!」


「あそこ、薄暗いから見間違いじゃ無いの?」

訝しげに彼を睨む。


「なんて言うか……所長で間違い無いと思うんですけど、こう……身体が若々しいと言うか……背筋も伸びてて筋肉質で……」


「はいはい、分かったわ……」

エミリアは呆れたように話を遮る。


「それよりあなた……あの時何処に行ってたの?

上の研究室に資料を届けに行っただけよね?

何で展望階に居るの?

どうせまた非常階段でサボってたんでしょ?

どうなの?」

エミリアが捲し立てる。


「ひいいっ……す、すいません……ちょっと一服していただけで……」


「もういいわ……!これ持って!」

エミリアが厚いファイルの束を押し付ける。

「午後までにこのデータ入力しておいて、分かった?」


「ええっ!?そんな……僕はただ主任が心配で……」

リチャードは哀しそうな顔をしている。

歳は何だか彼が気の毒になった。


歳はふうと息を吐き、アイの顔を見るとまた彼女の瞼がぴくぴく動いている。


アイはどんな夢を見ているのだろう──


冷めたコーヒーを飲みながら、エミリアとリチャードのやり取りを微笑ましく眺める──



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