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3章 第9話 些細な記憶

開け放たれた扉から光が差し込む──


そこから来る強い潮風の匂い──


工具の機械的な金属音が響く──


緑色のゴム質の床の上、李俊宇はドローンの整備をしている。


ドローンの大きさは大型バイク程。


ドローン免許学校の整備工場は、高い吹き抜けの大きな体育館程もある広さで、そこにいる多くの生徒達と教官がそれぞれのドローンを整備、分解している。


李の選んだドローンは、楕円形のボディに前後に四本のアームが取り付けられた物。


見た目を例えるならカニか、もしくは手足の生えたダンゴムシ。



何故この特殊なドローンを選んだのか、


それは、ほんの些細な理由だった──



……あれは今から、丁度一週間前


ドローン技術者を目指すために、俺は教習所に来ていた。


ここは独特の磯の匂いがする。


だが鼻につく、その匂いが俺は嫌いではない。


何か大切な昔の記憶を思い出させようとする──そんな匂いに思えた。


工業地帯の片隅の、海辺に在るその教習所は思っていたよりもとても大きな施設だった。


俺がこの場所を選んだのには、ふたつの理由があった。

ひとつは、取得できる免許の種類が多いこと。もうひとつは、就職支援がついているとパンフレットに書かれていたからだ。


それに娘を失って澱んだ気持ちを晴らしたかった自分としては、住み込み合宿も出来るこの場所はうってつけだった。


中に入ると受付には多くの人が並んでいて、何をどうすれば良くわからなかった俺はとりあえず受付で聞くことにする。


受付の中年男性は思ったよりも親切に俺の話を聞いてくれた。


「ドローンには、多種多様な種類があります。どんな目的で免許を取得したいのか、もし理由がありましたらそれに沿ったご案内をいたしますよ」


そう言って、受付の男は穏やかに微笑む。


俺は何も考えが無く、ただ仕事にありつくために免許が必要な事を伝えた。


「なるほど、かしこまりました。それではそれぞれのドローンの種類と、そのドローンに関連する業務を説明いたしますね」


そう言うと、男はデスクの下から厚手の冊子を取り出して、開いて見せる。


「まず、一般的なのが、小型ドローンです。これは個人的な趣味や、簡単な空撮、もしくはメディア等でも使われる事がありますが、仕事としてあまり良いとは言えないかもしれません。イベントなどに使われる物は機械制御が主流なので、操縦士として、活躍する場面は少ないと思います。小型の機種はこちらですね──」


ドローンにそんなに種類があると考えても見なかった俺は目を丸くする。


受付の男は親切に機種の説明すると、次のページを捲る。


「中型ドローンです。大体10〜30kg程度の物を運搬出来るモデルが多いですね。

荷物の配送、工事現場や、軍の関係者にもよく使われる事があります。比較的免許取得料金も安いので、お勧めですね」

そう言って彼は様々な中型ドローンのカタログページを捲って見せる。


その説明に真剣に耳を傾けながら、自分の先の未来を想像する。


そして今この時が自分に残された最後の分岐点だと、そう考える。


中年男性は軽い咳払いをすると、また別のページを捲る。


「これは大型ドローンと、大型特殊ドローンですね。これはかなり重い建材等を運ぶ時や、災害現場等で使われ、かなりの技術が必要になってきます。費用も時間もかかりますが、技術者の需要は多いです。

消防や警察の方、もしくは中型免許では不足な方が追加で取る事が多いイメージですね」


あらかた説明し終わって、男がパンフレットを閉じようとした時、何かその先にあるページが気になった。


「あの……その次のページのは……?」


「ああ、これは凄く特殊でして……」

受付の男は口淀む。


「これは水中で使用するタイプのドローンです。水中工事や深海ケーブルの保守点検、もしくは海難事故の救助等に使用されます。

需要は本当に限定的で、あまりお勧めは出来ないですね……」


そう言った後、彼はこう言い添えた。


「当教習所では、どのドローン資格を取る場合でも、オプションとして一度だけ、就職の保証をいたしますので、どうかご安心下さい」


それを聞いて少し安心する。


しかし、どの資格にするか……

今までの人生にない程に悩む。



大型か、無難な中型か……



そう悩んでいる時、

職員が換気のため窓を開けた──


外から海の匂いがする──



ふと脳裏に昔の記憶が蘇る──



あれは何年前だろう……



春が芽衣を連れて来て、一度だけ三人で海に行った。



階段状に舗装された味気ない海岸だったが、芽衣は楽しそうにカニを捕っていた。



遠くに汽笛が聞こえ、隣で春が笑っていた。



俺は濡れるのが嫌で座って見ていたけど、芽衣が転んで溺れそうになって慌てて水に飛び込んだ。



おかげでパンツまでびしょ濡れになったけど、芽衣が無事で良かったと春と笑った。



そんな些細な記憶──



俺は少し目頭が熱くなるのを覚えて、軽く息を吐いた。



そして受付の男性に向き直って、気まずそうにこう告げた。



「水中用のドローンでも……いいですか?」



男性は一瞬驚いた顔をしていたが、すぐにこちらの気持ちを汲んでこう付け加えた。


「かしこまりました。もし、途中で気が変わった場合でもプランの変更は出来ますのでお気軽にお申し付け下さい」


俺はその言葉に安心を覚え、同時に親身に対応してくれた彼に、少し申し訳ない気持ちになった。



しかし、プランを変える気は無かった。



他の人間が見たら馬鹿だと言うかも知れないが、記憶の中の春が言う。




────『貴方は嫌だと言ったけど……



良かったでしょ?……海に来て』────





──また目頭が熱くなる。



自分の心に従おう。



今はただ、そう思った────




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