薄い雲に覆われた秋の風が吹く昼下がり。
ノアカレッジは休日で人気はほぼ無い。
そんなキャンパス奥に建つアドミニストレート棟のベンチには二つの人影が佇む。
歳は久しぶりにカレッジで再開した恩師、アルバートシュタイン博士の口から衝撃の告白を受ける。
「所長が多重人格……さらに人を殺している……?」
歳は眉を顰め、そう尋ねる。
「そうだ、最初の犯行は今から二十年以上前、この場所、ノアカレッジ内のとあるラボで行われた」
彼からは先程までのジョークは感じられない。
「それが本当なら、何故彼は逮捕されていないのですか?」
「その理由、見当は付いているが、それを証明する手立てがない」
「証拠が無いという事ですか……?では何故あなたはその事をご存知なのですか、ドクター?」
「さっきも言った通り、私は創設以来ずっとこのカレッジを守って来た。当然、全ての監視カメラ、盗聴器、コンピュータのモニターにおけるまで全て掌握している」
「では何故……その記録データを使って彼を告発なさらないのですか?」
「理由はふたつある。まず、そのデータが存在しないからだ……」
「データが存在しないとは?」
「データが残っていなかったのだ。私はリアルタイムでその現場をモニターしていたが、データは記録されなかったのか、消されたのか、とにかくサーバーに存在しなかった」
「もうひとつは?」
「それは、私と彼の過去に関する事だ……話すと長くなる……」
「ドクター、僕はもう半分船に乗り掛かっているんです」
「そうだな……分かった」
そう言うと博士は大きく息を吐く。
「彼の過去を話そう」
そして静かに語りだす──
「私がこのカレッジを任されてから風紀委員を創設した事は話したと思う。その中のひとり、ドュミナス君が、彼の母親だと言う事も……」
「ええ、人の心が分かる能力を持っていると」
「左様、しかしそれが、彼女を苦しめていた。当時の私は軍隊上がりだったせいもあって、人の心というものがよく理解出来ていなかったのかも知れない」
「彼女の能力だけを見て、風紀委員に選抜したが、それが、どれだけ彼女の心に重い負荷をかけるか、想像していなかったのだ」
博士の旧式の少ない表情に後悔の念が窺える。
「確かに人の心が分かるという事は、人の負の感情を全て引き受けるのと同じ事をですからね」
「本当に、申し訳ない事をしたと、今でも思っているよ。しかし彼女は、その力を上手く使って他の委員達と共に、カレッジの規律向上に貢献してくれた。
しかし、ある事件が起こったのだ」
「ある事件、ですか……?」
「そうだ、それは酷い事件だった……。
風紀委員を良く思っていなかった過激派の学生達が彼女を襲ったのだ」
「彼女をラボに閉じ込め、複数人で何度も……
私が駆けつけた時にはもう、彼女は壊された後だった……」
博士の顔が更に険しく、背中はさらに小さくなる。
「彼女は大丈夫だと気丈に振る舞ってはいたが、その瞳は深い絶望に満ちていた……。
当然犯人達は逮捕され、退学になったが、彼女の心意外にも深い傷を残して行った」
「まさか……」
「そう、その男らの子を、彼女は孕ってしまったのだ……。
それが彼、ドュアリスだ……」
僕はその言葉に、とてつもなく苦いものを噛んだ様な感覚を覚え、言葉を失う。
「彼女はカレッジを去った……この子に罪はない、ひとりで育てると言ってな……」
そう言うと博士は、悔いる様に被りを振る。
「私も引き留めるべきだった……現実は厳しく、戦後復興間もないこの国では、幼な子を見ながら働ける職場など限られていた。
彼女が出てから数年後、彼女は貧困に苦しみ、私を頼って来たのだ……」
彼の言葉からは戦後の、この国を見て来た者の現実が感じられた。
「責任を感じた私は、それを承知した。しかし──」
「彼女はその後すぐ、
自ら命を絶った──」
「まだ三歳だったドュアリスは、彼女が寝ているものだと思って、
……必死で揺り起こそうとしていたよ……」
僕は博士の頬に、涙が流れるのを見た気がした。
「彼女の死が彼にどの様な影響を与えたかは分からない。ただ彼は普段はとても素直で勉強に励む良い子だったよ、だが……、
彼はハイスクールの時、大きな事件を起こした」
「彼の出自を揶揄った同級生を、彼は殴ったのだ……相手の意識が無くなるまでね」
「校内カメラの内容から、被害者側にも非があると認められ、事件は示談となったが、それからドュアリスに変化が起きた」
「彼は脳内に“言語を感じる“と、そう言っていた」
僕の脳内に、銀髪の少女の映像がよぎる──
「専門の医療機関で調べると、驚いた事に彼の意識には、彼の感じたものがプログラム言語として出力されていたのだ」
「それは、オリビアと同じ……?」
「おそらくそうだ。私は彼の脳にそれを制御するための、小さな装置を埋め込む手術を施した。もちろん、彼の同意のもとにね」
「それから彼は、その能力を使い、水を得た魚の様に様々な才能を発揮していった。彼がノアカレッジに上がる頃、彼は既に小さな製薬会社、『アトラス製薬』を買収してそのCEOとなっていた」
「今業界最大手のアトラス製薬ですか……!?」
「左様だ、当時はまだナノマシン型の薬を作る小さな製薬会社だった。現在も彼は、AIME所長とアトラス製薬CEOの二つの肩書きを持っている」
そこまで言い終わると、博士は鋭い目で僕を見る。
「ある時、彼はカレッジの研究室である女性と出会った。名前は『マリア』、とても明るく、誰にでも優しく接する研究室のムードメーカーのような女性だったよ」
「察していると思うが、その女性がオリビアの母、
──ドュアリスが後に結婚する相手だ」
「しかし、もうひとり、彼女に執心だった男がいてな、名前は『月影瑛二』、この時の研究室の教授だった男だ」
「……どこかで、聞いた事のある名前ですね」
「……そうだろうな……。
この男は……君の、父親になるはずだった男だよ」
「………!」
「ドクター、それはどう言う……事ですか……?」
「すまんな……余計な事を言った。
これは話すつもりでは無かったんだが……」
「教えて下さい。僕と、その月影という人物はどう言う関係なんですか?」
「……月影と、君の母親は昔、付き合っていた。
そしてこの月影瑛二は……君を子として認知しなかった……
そう言う事だ」
「そんな、しかし……!」
僕の言いかけたその言葉を、博士は手を前に出して制する。
「ふう……少し、詰め込みすぎたかもしれん……少し休憩しようか……日出君」
博士は少し笑顔を浮かべて、そう僕を気遣う。
「はい、ドクター……ちょっと……売店で、コーヒーを買って来ます……
ドクターも何か、お飲みになりますか?」
「いや、結構だ……お気遣い感謝する」
僕は、ひとり売店に向かう。
頭の中が、多くの情報で、混乱する。
昨日までの、平穏な日々が、嘘だったのように、
空が狭く見える。
博士はまだ多くの事を知っている様だった……。
僕の今まで積み上げた知識等、彼の歴史のほんの一行にも満たないと実感する────
売店のレジで品物を選択して、決済を押す。
手のひらに埋められたチップを画面にかざすと、決済が完了してカップが出てくる。
それを、備え付けのコーヒーメーカーに収めると、自動でコーヒーが出てくる。
ミルクと砂糖の量は、後から調整出来る。
コーヒーメーカーの出来上がりの合図が点灯する。
僕がカップを取り出そうとすると、売店の自動扉が開き、女性が入ってくる。
視界の外れですれ違う黒髪に、ふと彼女を思い出す。
「アイ……?」
振り向くと全くの他人……。
僕は静かにコーヒーに蓋をして売店を後にする。
コーヒーを抱え、博士の待つ丘の上のを目指す。
アイ……もうだいぶ、君の声を聞いてないね……
早く君の淹れたコーヒーを飲みたいと、
僕は心からそう思った。
博士はじっと遠くを見たまま佇んでいる。
僕は隣に座ると、博士に買って来たお茶を手渡す。
「ふふっ、こういうところが君らしいね」
博士はそう言ってお茶を受け取る。
「日出君……君は今のこの世界をどう思うかね……?」
そう言って淡く光る海の見える景色を見つめる。
手前には僕が乗って来た駅が見え、無人運行の列車が出てゆく。
「そう、ですね……人が人である限り、本当の平和は訪れないのかも、知れないですね。
僕達は、あなた方AIと違って、自分の感情に折り合いをつけられない。
愛する者を守るように、神様にプログラムされている。
自分の利益を奪う者を排除しろと、遺伝子に刻まれている。
だから、僕らがこの世界にいる限り、戦争は無くならないでしょうね」
「それは、人に対する諦めかね?」
「いえ、脳科学的に見た見解です」
「……彼は、諦めたのだよ……」
「ズー所長の事、ですか?」
「そう、彼は世界を、灰色に染めようとしている」
「灰色に……どう言う意味、ですか?」
「プロジェクト、スケアクロウ……」
「……何故、あなたがその名前を?」
「ふふ、私の情報網を甘く見てもらっては困る。彼が長年、推し進めているプロジェクトだ。勿論、君も知っているはず」
「ええ、人の記憶と人工知能の融合……」
「それは表向き。本当の目的は、
世界の人間の記憶を、人工知能に書き換える事だ──」