暗い。
何時になっただろう、と思うけど、スマホを見る気にはならなかった。何時でも同じだ。それに、昼寝したからこのまま眠れなくても、きっと問題はない。
結局、一日ごろごろとしていただけだった。
『今日は休みにしようか。あ、でも、スケッチはさせてほしいな。好きに過ごしてもらっていいから、描かせてほしい』
大量の焼きたてパンとスープとポテトサラダで朝だか昼だかわからないご飯を食べた後、アキトさんは今すぐにでも描き始めそうな様子で言ってきた。
今もベッドにあるパンダのぬいぐるみの半分くらいの小さい、やっぱりパンダのぬいぐるみをクッション代わりにソファーに座っていた俺は、多分、「何を言ってるんだこいつは」という顔をしたんじゃなかと思う。だって、何のために高い金を払ってるのか。
そりゃあ腰も尻もまだ痛かったけど、アキトさんには関係のないことのはずだ。
『時間はまだあるし、無理させちゃったから。これだって、モデルには違いないよ。あ、じゃあ休みじゃないか』
のほほんと笑う、ほっぺたでもつねってやろうかと思った。けど、考えるまでもなく俺にとっては好都合で、怒る理由なんてなかった。
それならいいや、と好きに
昨日のあれこれが残っていて動くのはしんどいし、ネット回線にはつながってるから配信系なら見れるよ、と言われたテレビを見る気にもなれなかったし、壁一面の本はむずかしそうなものばっかりで漫画の一冊もなかった。
仕方がないから、やたらと重くて豪華そうな画集を適当に引っ張り出して眺めていたら、さらさらとかかりかりとか音を立てて、本当にスケッチを始めていた。
『気にしないで』
『はあ…』
昨日ほどに強くはないとはいえ、全身をなでられるような視線を気にしないというのも無茶な注文だ。
それでも、見られてそわそわしながら、なんとなく連れてきてしまった子パンダのもふもふの腹に埋もれて天窓の日差しを浴びていたらいつの間にか眠ってたんだから、俺もかなり図太い。
途中、少し話したりスケッチブックを見せてもらったりして――今日の絵も昨日の絵も気まずくて即閉じたけど――間にアップルパイも食べたりして。
そういえば、この家には大量の冷凍食品やチルド食品、パウチ食品というような、ほぼ調理済みやインスタントの食品しかないようだった。もしかすると、調理器具すらないのかもしれない。
一月近くもいるなら料理をしたかったけど、無理だろうか。
――だめだ。飽きた。
軽くため息をついて、体を起こす。さすがに、そこそこ回復して動ける。リビングで、何か飲み物をもらおう。
いつの間にか、人の気配がないと眠りづらくなっていた。
この一年ほどは悪化して、壁の薄い狭いアパートでもあんまり眠れなくなって、解約してネカフェを渡り歩いた。
さすがに少しうるさいし寝心地は悪いけど、まだ眠れた。あとは、待機部屋での居眠り。
朝までの客がついた上に徹夜コースでない、というごく限られた状況が、ほぼ唯一の快眠条件。
――そんなのダメだろ。
何も知らなくて引きついでしまった親父の借金を、あと少しで返し終わる。
闇金からのそれは、もしあのまま晴喜さんに肩代わりしてもらえなければ、ふくらんだ利息で今も全然減ってなかったんじゃないだろうか。
自分も余裕なんてないのに、美羽の将来のことだってあるのに、手を差しのべてくれた人たちにこれ以上迷惑なんてかけられない。
返すのに時間なんていくらかかってもいいという言葉にも、だからうなずけなかった。
デリヘルの雇われ店長をやっているのに俺がそこで働くことに反対したことだって、反対しすぎて他の悪質なところに行くよりいいと思って置いてくれてるのだって、わかってる。
あの時。もう少し、知識があって。顔も覚えてない親父の借金なんて放棄できるって知ってたら、こんな風に迷惑なんてかけなくてよかったのに。
でも、そうしたら晴喜さんや美羽と知り合うこともなかったのか。それはちょっと、寂しいな。
「電気…ちっさいのならいいかな」
山の中とあって自然のざわめきは感じられるけど、人の気配は全くない。アキトさんは使わせてもらってる部屋とは逆の端っこが寝室らしくて、いないのと変わらない。
わざわざ声を出してしまったのは、自分のでもいいから声を聞きたかったからだろう。
一番小さい明かりに調節して、冷蔵庫や棚を開けて見る。
結局、夕飯もアキトさんが用意してくれて、パンダに埋もれたまま動かなくていいと言われたせいで何があるのかちゃんとは知らない。
思ったよりも、お取り寄せっぽい高そうなやつが多くてちょっとびびる。もしかして、今日の二食分で結構な額を食い散らかしたんじゃないだろうか。
――考えない考えない。
どうせ、一月足らずのつきあい。あの人がどんな金銭感覚をしてようと、俺より恵まれた生活ができてるんだろうし、口を出す問題じゃない。
ミルクパンを発見して、ココアの粉末も見つけたから牛乳は、と探したけどなかった。
というか、生鮮食品が、無い。
かろうじて大量のコールスローがあるくらいで、野菜はすべて冷凍か調理されてるし、卵もないのに見たこともないチーズっぽいやつはあったりする。高級そうなジュースはあっても牛乳はない。
――お湯でとくより牛乳の方が好きなんだけどな。
あきらめてお湯で我慢するか、とも思ったけど、ビンに入ったリンゴジュースとカモミールのティーパックを見つけて、路線変更。
ワインのビンも目に入って、白ワイン…とも思ったけど、さすがに無断で酒をくすねるのはダメな気がする。もしかしたら、ワインよりもリンゴジュースの方が高いかも知れないけど。
飲みきりなのか一杯分くらいしかないジュースを全部鍋に入れて、弱火で加熱。少し濃くなりそうだから、あいたビンに水を入れて鍋に足す。
しばらくゆらしながらあっためて、
――変な感じ。
知らない人の家で、夜中にこっそり火を使っている。
昨日からずっと、穏やかで、都合のいい夢の中みたいで落ち着かない。もっと変態みたいなのを想像してた「お客」は優しくて、モデルとその後のセックスはしんどかったけど、乱暴ではなくて。
別に、俺にってわけじゃなくて、今までも同じようにしてきたんだろうから、勘違いして後でつらくならないようにしないと。
そう思う時点で、ちょっと流されかけてるんだろうな、との自覚はある。あったところで何にもならないところがいやだ。
「…チカ君?」
「ぅえ?!」