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<チカ>

『出かけてきます。サンドウィッチがあるのでよかったら食べてください』


 冷蔵庫にメモを張る。敬語をやめてほしいとは言われたけど、文章だとなんとなく丁寧になる。このくらい、いいだろう。

 お昼ご飯を食べた気配がないから、俺の分のついでに作ったけどどうだろう。食べてくれるだろうか。

 帰っても残ってたら夕飯に食べればいいだけだけど。

 そして、パンを冷蔵庫に入れるのはいまいちらしいから、常温の方がましかとも思うけど、傷みそうだし。

 新鮮なきゅうりとトマトは水分が多いから、切ったらこの時期だし出しっ放しは危ない。生ハムと玉子焼きは、大丈夫かもしれないけど。いや、そっちも危ないんだろうか。


「…行って来ます」


 聞こえてないだろうな、とは思うけど、一応。

 昨日から俺のことも見ずにひたすらスケッチブックに絵を描いているアキトさんは、きっと、何も聞こえてないし見えてない。

 そこまで集中できるものがあって、しかもそれで十分以上に食べていけるというのはかなりうらやましい。


 一応断ってのぞき込んだ紙の上には、かなりリアルなでも現実ではない絵がえがき出されていた。


 大きな折れた羽をはやして拘束され、ひざまづいた天使みたいな人物。壁の石垣も、実際に部屋に置いてあるついたてとは大違いに本物っぽかった。

 天使の、苦痛に歪んだような恍惚としているような表情は、多分俺のもので、でも天使そのものは別の顔をしていて、だからどうにか見られた。

 そんな絵を、少しずつ変えて大量に描いていた。


 今朝聞いたところでは、とにかく描いて、これだ、と思うものが出て来るまで煮詰めるのだという。構図が決まったら、改めてカンバスに下絵を描いて、色もつけていく。

 その構図が決まるまではただただ描くだけなので、外出も含めて好きに過ごしていいと言われた。聞いていた通りにお小遣いまでくれた。多すぎたけど。

 万札が何枚も入ってる財布にぎょっとして返そうとしたら、主真カズマにカードはやめろって言われたんだよね、と、何故か申し訳なさそうに言われた。

 以前、カードを限度額まで使われかけて、以降禁止にしたらしい。いやそもそも小遣いにってそんなもの渡すな。


 今までの経験者や噂で聞いた話では、本当に監視も束縛もなく放置されるこの期間や、カンバスに描き始めてからも夜以外は自由だからと、市街地まで出て、なんと恋人まで呼んで遊んだ奴もいるらしい。

 もちろん、費用はほぼ「お小遣い」から。


 ――引く。どっちにも。


 小雨の中、置いてあった傘を勝手に借りて開く。

 コンビニにあるようなビニール傘だし、ちゃんと返すし、このくらいでは怒られないだろう。と言うか、気付かないだろうな、そもそも。


 午前中の一週間ぶりくらいの外出で、久々にアキトさん以外の人と話した。

 アキトさんの家は最寄りのバス停からすら歩いて二十分くらいかかったけど、そのバス停からのちょうど真ん中くらいのところにパン屋があった。

 来た時にも気にはなっていたし、晴れた日に窓を開けると、かすかにパンの焼ける匂いがしたりもした。

 行ってみたいな、と思っていたそこは、素朴でおいしいパンが並んでいた。

 アキトさんの冷凍庫に収まっている、オーブンに入れるだけで焼きたてパンを食べられる、というあのシリーズもおいしいはおいしいけど、歩いて十分くらいなんだからこっちに買いにくればいいのに。俺の基準からすれば高いけど、アキトさんにはそうでもない値段だろうし。

 もしかして、パン屋があるって気付いてないんだろうか。ありうる。


 その店で、とりあえず昼に食べる分とジャムを買って、買い物ってバスで駅のあたりまで出ないとできないですか、と訊いたら。


『日用雑貨? 食品?』

『卵とか牛乳とか…野菜とか肉とか』

『卵と野菜だったら、ちょっと歩くけどあっちの方に無人販売所があるよ』

『えっどこ?!』


 夫婦でやっているという二人は、主に夫の方がパン作り、妻の方が販売や事務全般をやっているらしい。この時はたまたま、パン焼きが一段落ついていたようで二人とも店に出ていた。

 そして、他に客もいなくて、この近辺のことを教えてもらっていたら好きな漫画の話にまでとんで、盛り上がってしまった。

 長々と話し込んでいる間に子どもを連れたお客さんが来て、さすがに切り上げようとしたら、こそっと夫の方、ハジメさんが近付いてきた。


『今日、時間あるなら駅前まで乗せていこうか? パンを置いてもらってる店に商品運ぶのと、仕入れと、今日のパン焼きが終わったら行くんだけど』

『いいんですか?』

『二時くらいになるし、積み下ろしを手伝ってもらえるなら、だけど。保冷車だから、肉や野菜も安全に運べるぞ』

『お願いします!』


 初対面で図々しいとは思ったけど、妻の方、佳奈美カナミさんが妊娠初期でちょっと体調を崩してるというのは聞いていたし、向こうも人手が欲しいちょうどいいタイミングだったんだろう。

 むしろ、俺を信用していいのかとそちらを心配するべきなのではないだろうか。

 何にしても歓迎すべき申し出で、あと教えてもらった無人販売所で卵が買えるならサンドウィッチもできる、と食パンを買い足して、二時にまた来ることを約束して店を後にした。


「こんにちは」

「いらっしゃい。ちょっと待ってね、もう少ししたら車回してくるから。野菜、買えた?」


 佳奈美さんの笑顔に迎えられる。

 客は居なくて、三時が閉店目安の店内では、パンの数も朝に訪れた時よりも淋しくなっていた。


「はい。とりあえず、生で食べられるトマトときゅうりと、あとは卵も」

「そっか、よかったよかった。ところで君は、食べるのが好きな人? 食べさせるのが好きな人?」

「はい?」


 ――なんだその二択。


 佳奈美さんは、一言断ってカウンター内の椅子に腰かけ、楽しげに笑っている。


「料理好きなんだよね?」

「え。はあ…まあ…?」


 そんなことを話したかな、と思うが、食材に興味深々となればまずそう考えるか、とも思う。好き、なんだろうか。


「料理好きって、二種類いると思うんだよね。単に仕方なくやるんじゃなくて好きってなるとね。食べることが大好きで、自分が思い描く味で食べたい、ってなっちゃうのが食べるのが好きな人。誰かが食べてるのを見るのが幸せってなるのが、食べさせるのが好きな人。ね、どっち?」


 ――ああ。


 料理を覚えようとしたのは、まだ母親と暮らしていた時。

 シングルマザーで頼れる身内や親せきもなく、働きづめの母親に楽をしてもらいたかったし、よろこんでもらいたかった。

 晴喜ハルキさんに拾われてからも、美羽ミウや晴喜さんがよろこんでくれるのが嬉しくて。

 だから、アキトさんにも作ったんだ。よろこんでもらえるだろうかと。

 もしかしたら、手作りが苦手な人かもしれないし、無視をされるかもしれないのに。


「…食べてもらいたい、かも」

「そっかあ。いいよね、つくったもので笑顔になってもらえるのって」

「そう、ですね」


 もう残り三週間を切ったのに、何を考えてるんだろう。


 ――気付きたくなかったな。


 一さんが車を回してくるまで、買って帰ったパンの感想やアレンジ調理法を聞きながら、ため息をつきたい気持ちになった。 


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