目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

<アキト>

 冷蔵庫を開ける。閉める。もう一度開ける。

 何度やっても、同じものしか入ってない。当たり前だ。当たり前だけど、じゃああれは夢だったんだろうか。冷蔵庫に貼ってあったメモもなくなってるし、幻だったんだろうか。

 諦めきれずに、もう一度冷蔵庫を開けてしまう。冷気がただよう。


「…アキトさん? 何やってるの?」


 パジャマ姿のチカ君が、恐る恐る、という風に声をかけて来る。

 これは、ちゃんと現実だろうか。ぼんやりと、冷蔵庫に視線を戻す。


「あの…?」

「冷蔵庫に。おいしそうなサンドイッチがあって。あったはずなんだけど、なくなってて」


 え、と上がった声に、体を向ける。

 チカ君が、戸惑とまどった顔をしていた。


「…いらないんだと思って、食べたんだけど…メモはがしてるのに残ってるから、食べるつもりないんだと思って…」

「おいしそうだなって…後で食べようと…」


 自分でも、情緒不安定になっていると判る。涙が出るなんていつぶりかわからない。

 多分昼過ぎに、飲み物を取りに来てメモとサンドイッチを見つけて。

 半分意識の外ではあったけど、チカ君が用意してくれたものだろうことはわかったし、おいしそうだなとも思った。嬉しかったし、後で食べようと楽しみにもした。

 いつものように没頭して、気付いた時にはとっぷりと日が暮れて、とにかくお腹がすいていた。

 考えたら、朝に少し食べてからオレンジジュースしか飲んでない。


「お腹すいてるなら、何か用意するよ?! ご飯? 麺? パスタ?」

「…サンドイッチ」

「え。や、あー…パンがもうなくて…」


 ぼろぼろと涙がこぼれて、チカ君が驚いて慌てている。僕も吃驚びっくりしてはいるけど、止まらない。


「明日! 明日でいいなら、作れるから! 今はとにかく…ちょっと待って、食べられるものすぐ作るから!」


 僕を冷蔵庫の前からソファーに移動させて、パンダを寄り添わせて、しばらく。

 出汁だしのいい香りが漂う。そうして、小さな土鍋が差し出された。蓋が開けられて、おいしそうな湯気が立ちのぼった。


「熱いから、気をつけて。…食べられそう?」

「…いただきます」


 お茶碗によそってもらったおじや。具はシンプルに、卵とネギ。あと、ちりめんじゃこ。

 ほかほかとあたたかく、お茶碗で軽く三杯分くらいのそれは、あっという間にお腹に収まった。

 その間ずっと、チカ君は、気まずそうに目をそらしていた。


「ごちそうさま。チカ君、ありがとう。ごめんね」

「え?」

「サンドイッチ、折角せっかく用意してくれたのに」


 言ってから、そもそもあれは何だったのかとはたと気付く。

 冷蔵庫にも冷凍庫にもなかったはずで、近くに買えるようなところがあるだろうか。全然近所づきあいをしてないから、飲食店があってもさっぱりわからない。

 ソファーの、隣に座るよううながす。パンダを挟んで腰を落とした。


「勝手にしただけだから…見せびらかして取り上げるみたいになって、むしろごめんなさい」

「チカ君は悪くないよ。全然。僕がぼーっとしてたから…全部、後回しになっちゃうんだよね。意識の外に行くっていうか。…作れるって言った? 作る? 作ったの? あれを、チカ君が? あれ。待って。出汁なんてあった? 卵も…ネギもちりめんじゃこも。この土鍋だって」

「あー…」


 色々と遅れて、一挙に押し寄せる。

 パンダをつかんで身を乗り出すと、いくらかのけぞられてしまった。それでも、引けない。

 僕は何か凄く、もったいないしひどいことをしたんじゃないだろうか。

 チカ君は、しばらく目を泳がせて、諦めたように肩を落とした。僕から少し距離を置いて、座り直す。


「アキトさん、歩いて十分くらいのところにパン屋あるの知ってる? 『森の小麦』って店。あと、結構近所に無人販売所がある」

「知らない」

「やっぱり」


 思わず、といったようにこぼして、苦笑する。いやな感じではなく、穏やかで、どうしてだか胸がきゅっとする。


「四年くらい前にオープンしたって。もうその頃には、ここに住んでたんじゃない?」

「いたね」

「少しくらい散歩でもした方がいいよ。っていうか、車持ってないんだから市街地とか行くならバスでしょ? バス停に行くまでにあるのに、気付かない?」

「…最後にバス乗ったの、いつだったかな…」

「…仙人か世捨て人?」

「世の中を棄ててる人間はエロにはしらないと思う」

「煩悩まみれの世捨て人」


 顔を見合わせたまま、そろって噴き出してしまう。


 チカ君は、こんな風に笑うと幼さが顔をのぞかせる。つるつるの肌で、無邪気さを振りまく子どもみたいだ。

 つい手を伸ばしそうになって、まだ何も答えてもらってないと気付いて自制する。


「今日、そこに行ってたんだ? えっと…森の熊…?」

「森の小麦。くま出てこない」

「出てこないか」

「うん」


 笑うチカ君の膝にパンダを乗せて、距離を詰める。

 今度は、逃げられなかった。単に、アームがあって逃げられなかっただけかも知れないけど。


「朝ごはん食べて、アキトさんが絵を描き始めてから行ってきたんだ。そこで無人販売があるって教えてもらって。きゅうりとトマトと卵買って、森の小麦の食パンでサンドウィッチつくって。そこの人と仲良くなって、駅前まで行くって言うからついでに乗せてもらって、他にもいろいろと買って」

「ああ、その戦利品なんだ。…僕が食べちゃってよかった?」

「元々、アキトさんのお金だし」

「チカ君が使っていいお金だよ」

「あ。でも、だしは…お茶とかコーヒーとかのところに未開封のままあったけど。賞味期限ぎりぎりのやつ。アキトさん…じゃないなら、誰か買ってたんじゃない?」


 誰か。今まで、来てくれていた誰かか主真カズマ、は、買わないだろうなあ。

 もしかしたら、まとめ買いしたおまけについていたのかもしれない。

 というか、未開封の出汁って一体どんな代物なんだろう。後で見てみよう。


「ごはん、凄くおいしかった。チカ君、料理上手なんだね」


 隣を見ると、パンダに顔をうずめていた。可愛かわいい。


「…チカ君?」

「明日、食パン買ってきてサンドウィッチつくるから、いつものパンは焼かないで」

「ありがとう。あっ、でも、いいの? 負担にならない?」

「料理するの好きだから…」

「凄いね。僕は、掃除や洗濯はどうにかなるんだけど。いや、ちゃんとできてるかって言われたらそうでもないと思うけど」


 全く顔を上げてくれない。パンダ、ずるい。


 そう思ってから、あれ、と気付く。今まで、こんな風に感じたことはあっただろうか。

 そもそも、あんまり話をした覚えがない。

 今までの子たちとは、食事の時間もばらばらで、四週間のうちの前半で放置しすぎるからか、後半になってもそれぞれの時間を過ごしていた気がする。


「ごはん、一緒に食べられないかな」

「…?」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?