唐突にこぼれた言葉に、思わずといった風に顔を上げたチカ君は、不思議そうにまばたきをした。少し、慌ててしまう。
だけど、いいかもしれない。
「朝と夜、ずっと一緒に食べられないかな。朝は僕の方が早く起きてるだろうから用意するから、夜は…すぐには気付けないかも知れないけど、えっと…あ! おいしそうな匂いとかさせてくれたら!」
「匂い?」
「うん。そうそう、音よりは匂いの方が気付きやすいんだ。多分」
「でも、今日…そっか、パンだけだから部屋が違ったら匂いなんてしないか…」
僕に聞かせようと思ったわけじゃないだろう、つぶやき。
でもそのパンは、僕がうっかりとやり過ごしてしまったサンドイッチのことじゃないだろうか。折角、作ってくれたのに。
「気付かなかったら、蹴り飛ばしてくれてもいいから」
「そ…れはしないけど。…うん。アキトさんがいいなら。っていうか、今まで一緒に食べてたから、昨日今日がイレギュラーなんだと思ってた」
「あれ?」
そう言えば。
モデルの日は動くのもしんどそうだからまとめて二人分を用意していたし、休みの日もずっと一緒にいたから、別々にする必要も感じなくて。
「…料理、してもいい…?」
「もちろん。あ、でも、無理しなくていいよ?」
「いや、全部は無理だと思うけど、一品だけとか、炊き込みご飯も作ってみたいなとか…」
「うわあ、楽しみだなあ。…チカ君?」
何故か、チカ君の膝のパンダは握りしめられたままだ。
どうかした、と声をかけようとしたけど、チカ君が何をか言いそうな気配があって、口をつぐむ。
数拍置いて、チカ君はパンダを握りしめたまま、視線も落としたまま。
「あの…お願い、してもいい、ですか」
「うん?」
「その…。一緒に、寝てもらえませんか」
「んん?」
お誘いかと都合よく考えかけて、多分違うとブレーキをかける。パンダにかかる指が、力を籠めすぎてそのまま食い込みそうだ。
「俺、誰かと一緒の方が…眠りやすくて。…同じ部屋にいるだけでいいんで、俺は床とかで十分」
「いや待って待って、床でなんて寝かせられないから。えっと。近くに居ればいいの? 今までどうしてたの? 誰かと同居してるとか?」
「…ここ一年くらい、ネットカフェとか泊まり歩いてて。あそこなら、いつも人の気配するから」
ネットカフェ、の実情を僕は詳しくは知らない。いつだったか、主真がちらっと話していたのを聞いたくらいで。
その時の話題は、金のない人間を探す場所が変化してるとかそういう物騒なやつで。ネットカフェで寝泊まりしてるホームレスがいるとかそんな。
だけどチカ君は、こういう仕事はしてるはずで。しかも、主真の網に引っかかって来たということは、ある程度安定的に稼いでいるはずで。
「家賃節約とか、そういうのじゃなくて? 不眠症みたいなもの?」
「…よくわからないけど、そんな感じ」
だからか、と納得した。昨夜、あんなところで眠ってしまっていたのは。
一人では眠れなくて、絵を描いていた僕の近くに来ていたんだろう。
休みの日に、必ずと言っていいほど夜遅くにリビングで飲み物をつくっていたのも、眠れなかったせいなのか。
でも、一人じゃないと眠れないというのはまだわかるけど、逆とは。家族やパートナーがいない状態では、随分と
「いいよ」
ぱっと、チカ君の顔が上げられる。真っ直ぐに目を覗き込んで、頭を
「ただ、二つ、条件がある」
不安げに揺れる眼に、笑いかける。ちゃんと、笑えてるだろうか。安心させられるように。
「抱きしめてもいい? チカ君がここに来てから、毎日抱きしめて寝てて、僕も眠りやすくなってるんだ」
「毎日?!」
「あれ。気付いてなかった? でも…あー…先に眠ってた、かな。朝は僕の方が大分早く起きてたし」
「えっ朝まで!?」
「うん」
気付いてなかったのか。
だけどそれなら、眠っていたところを運んだ時はともかく、セックスの後なんかは、放置して部屋に戻っていたと思われていたのか。
あ。でも、今までにはそうしたこともあったか。結構。
「もう一つは…多分、密着してると…その気になっちゃうこともあると思うから…」
「それは、アキトさんの好きなように」
「だからね。厭だったり疲れてるときは、ちゃんと断ってください」
「え」
「そういうこと込みで契約してるけど、チカ君が嫌がることはしたくない。初日からあれで説得力ないかも知れないけど、契約を楯に好き勝手したいわけじゃないんだ。無理はしてほしくない。…ほんと、どの口が、ってことではあるんだけど…」
「っ」
パンダを抱えて、体を丸めるようにうつむいてしまったチカ君は、しばらく顔を上げてくれなかった。