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<チカ>

 トイレから戻ると、アキトさんはすっかり親パンダに抱きついていた。


 ――かわいい。


 投げ出された右足を抱きかかえている。

 トイレに行くから身代わりに、と置いて行ったらこれだ。抱きつき癖でもあるんだろうか。


 やっぱり、アキトさんの方がよっぽどモデルができそうだ。

 朝姿を消していたのはトレーニングがてらこの建物の背後にそびえる山を上り下りしていたとかで、実は結構筋肉質できれいな体つきをしている。


 もう、ここに来て契約の半分以上がすぎた。


 アキトさんの描く絵も進んで、今はスケッチブックを手放して、絵筆をとっている。

 まるで何が出来上がるかは決まっていて埋めていくだけとでもいうようなき方は、何もない真っ白なスケッチブックの上に世界が生み出されていくのとは違って、それでもやっぱり魔法みたいだった。

 そうしてすっかり、一緒にご飯を食べるのもベッドで寝るのも、慣れた。

 慣れたと言うか。やさしすぎるし甘すぎるしで、ちょっといろいろとまずい気しかしない。

 これだけ甘やかされて、まるで大切に想われてるみたいに扱われたら、そりゃあダメ元でももう一回どうかと聞きたくもなるだろう。本当に、今まで一人も二度目はなかったんだろうか。

 いや、無かったとしても、こんな風にされたら、自分だけは違うんじゃないかと勘違いだってするだろう。


 ――もう帰りたい。


 帰る場所なんてないけど。

 だからちゃんと、この後のことを考えないといけない。いくらなんでも、ずっとネカフェを泊まり歩くのは疲れる。

 待機部屋で寝泊まりもできるけど、ずっとそれをするとほぼ確実に晴喜ハルキさんに知られてしまう。

 人の気配が感じられるなら、シェアハウスというのも考えた。

 だけど、ああいうところは普通のアパートなんかよりもつきあいが必要だろうから、今の仕事をしていたことを勘付かれたりしたときが厄介だ。

 けられたり嫌われたりするくらいはやり過ごせるだろうけど、遊び半分にでも襲われたりしたら面倒しかない。


 あとは、恋人をつくる、とか。

 こんな仕事だし、借金のこともあったしであんまり考えたこともなかったけど、一緒に暮らしてくれるような誰か、は、そういう人だろう。

 ただ俺の場合、男と女とどっちなんだ、という気はするけど。

 よくよく考えたら、今まで誰かを好きになったことなんてあっただろうか。


 とりあえずお試しでシェアハウスを借りて、恋人を探すか…晴喜さんが、添い寝だけの人の斡旋もしてるから、そっちで働かせてもらうか。

 そっちの仕事ができるなら、普通に部屋を借りてもやっていけるだろうか。


「…ちかくん…?」


 いきなり、アキトさんが目を開けた。

 それでも、寝ぼけているようにとろんとしている。不思議そうに、抱いていたパンダの足をはなして、体を起こそうとした。


「アキトさん? 何か」

「さむい」

「え?」


 腰に腕を回してきて、布団に引きずり込まれる。

 そろそろ梅雨も終わって、初夏。明け方なんかに少しくらい肌寒さはあっても、布団の中でまで寒いような季節じゃない。

 されるがままに体を倒すと、アキトさんは、すぐに寝息を復活させた。これは、起きたときには覚えてないやつだろうか。


 ――あったかい。


 たしかに、人肌は心地いい。今はパジャマ越しだけど、直接ふれたときの熱も、もっと奥深くにしこまれる熱さも、知ってる。


 ――だから。勘違いするなって。


 今までだってアキトさんはこういう風にすごして来たんだろう。やさしいのも、甘いのも、俺にだけじゃない。

 セックスがめちゃくちゃうまいのだって、それだけ数をこなしてきたからだろうし。こんなの、客としてはタチが悪すぎる。

 がっちりと腰を抱きかかえられ、胸に顔をうずめるようにくっつかれて。

 規則正しい寝息を聞いていたら、なんだか考えるのも馬鹿らしくなってきた。

 また今度にしよう、と、何度目かもわからないことを考えて、俺も、アキトさんの背に手を回した。


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