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<アキト>

 絵は、き上がった。

 今回は水彩絵の具だから、数日置いたら梱包して、送れば終わり。これが油絵だと、ある程度乾くまでは手元に置いた方がいいから、無茶を言われなければ、依頼主に渡すのは半年以上は後になる。

 左翼の一室は湿度や温度の設定できる保管部屋にしていて、ほぼ常に何枚かは置いてある状態だ。


 とりあえずは描き上がったものを写真に収めて、依頼者へと完成報告。

 実際には、僕がやるのは写真と発送予定日を主真カズマに送るだけ。随分と楽をしている自覚はある。

 主真に再会できていなければ、精神的にか経済的にか、とっくに破綻していただろう。


 写真と入れ替えに、次の作成候補が数点送られてくる。

 そこから描きたいものを選んで、モデルのイメージを伝えればいくらか沿った人を探してくれる。

 あと数日をまったりと過ごして、モデルの人を見送って、ハウスクリーニングを入れてたまに主真が遊びに来て、また新たにモデルの人が来る。

 そうして、また一月。


 いつもなら。


 ぼんやりと向けた視線の先には、苦しくないのか、うつ伏せで眠るチカ君の姿がある。

 触れたいけど、起こしてしまいそうで触れられない。


 もはや習慣と化している山歩きから戻って、洗濯も済ませた。

 チカ君が目を覚ます前に朝食の用意に取り掛かるつもりが、つい、顔を見に来てしまった。

 そうして、主真からのメールに気付いて、身動きが取れないことを自覚した。


 あと数日で、チカ君は出て行ってしまう。

 僕の知らないところに帰って行って、それっきり。

 そんなの、いつものことなのに。そうやって決めたのは僕なのに。


「ぉぁよ…?」

「おはよう、チカ君」


 ぼんやりとうっすらまぶたを開いたチカ君はまだ半分夢の中に居るようなのに、律儀りちぎに目ざめの挨拶をくれる。

 起きたんだからいいやと、枕カバーかシーツの跡の残る頬に触れた。そのまま、首筋に口付ける。左手は、布団とパジャマの下にもぐった。


「ん…っ…?!」


 唇を塞いで、右手は背の方に。はじめこそ驚いて慌てたようだったチカ君は、ふっと力を抜いて、むしろ身を寄せて来る。

 名残惜しいけど、そこで離した。


「おはよう。朝ごはんにしようか。着替えておいで」

「っ…スープ、作ってあるからあっためて…」

「はーい。昨日いいにおいしてたやつだね。楽しみだな」

「…っとにタチ悪い」

「ん?」

「なんでもない」


 しっかりと聞こえたけど、飛び跳ねるようにトイレに逃げたチカ君を追求するのはめておこう。

 昨日チカ君が買ってきてくれた「森の小麦」のパンが残っていたはずだから、トースターで軽く焼いて、チカ君のスープを温めて。


 お腹さえ膨れれば、体力さえ補給できたら充分と考えていた食事が、随分と様変わりした。

 チカ君の手料理につられてか、冷蔵庫や冷凍庫に詰め込んでいたあれこれも、美味しいと感じられるようになった。

 もちろん一番は、チカ君の作ってくれたご飯だけど。

 胃袋を掴まれる、というのは聞いたことのある表現だったけど、なるほどこれが、と思う。

 ただ、どちらが先だったのかは判らない。そもそも、どこから、いつもとは違ったんだろう。


 リビングに戻って鍋を弱火にかけ、ややぼんやりとする。どうしたらいいんだろう。

 今の方法を始めるきっかけになった子は、こういった商売をしていたわけではなかった。

 ただ偶然出会って、モデルをお願いして。ヌードモデルではあったけど、ただそれだけ。性具を使えばどうだと提案してきたのはあちらだったか。

 そのあたりから、おかしくなっていったんだろうか。いつの間にか、彼と僕の愛情の天秤は傾ききっていて、重さに耐えられず、手を離した。

 執着と呼べそうなそれが、怖ろしかった。きっとそういうのは向いてないんだとも。

 だから、プロに一度きり、と決めた。それで、うまく回っていた。


「…チカ君、まだかな」


 コーンポタージュっぽいスープは温まったけど、チカ君はまだ来ない。

 鬱陶しがられるかな、と思ったけど、様子を見に引き返した。二度寝してるかもしれないし。


「チカく…」

「…ん、順調、問題ない。予定通りに帰る」


 砕けた声。

 僕に対しても敬語はやめてもらったけど、いくらか構えているのは判る。適度に距離を置いて、言葉はいくらか砕いて。

 すぐに応じてくれたところといい、慣れてるな、と思ったのを覚えている。別に悪い意味じゃなく、プロなんだろうな、と。


「んー。一応、まだ置いといて。――うん。どうするかわかんないけど。あでも、問い合わせもらってるのは、受けといて」 


 淡々と、声のトーンが全体的に低いのも、慣れた相手だからだろうかと思わせる。

 立ち聞きしてると気付いたけど、ダイニングに戻ることも、作業部屋に入ることもできなかった。


「最終日…は、何時に帰れるかわからないから、次の日からかな。一日一人で、時間はお任せします。――えー? 一日に三人まとめて詰め込まないだけ、のんびりじゃん。大丈夫だって、仕事なんだから」


 どくりと、心臓が厭な音を立てて脈打った音が聞こえた気がした。

 仕事。

 チカ君がここに来たのもそれで、今、その話をしてる。多分、ここが終わった後の話。

 ここを出て――誰かがチカ君に触れる? チカ君も、それを受けれる?


「お願いします、帰ったらちゃんと報告に行くから。――え、いいの? ほんとにがっつりごちそうになるけど? ――うん。ミウに会えるの楽しみにしてる」


 通話を終えて、深々とため息が一つ。

 その音でスイッチが入ったように、足音を忍ばせて全力でリビングに戻って携帯端末を引っ掴むと、左翼の奥まで駆けて行った。ここには、チカ君は立ち入らない。

 主真からのメールを探して、今回の契約についてのものを探し当てる。チカ君の所属している店の、電話番号。

 タップして、数度のコール音の後にまだ若そうな男性の声が店名と続けてマニュアル通りだろう言葉をつむぐのをさえぎって、名乗って店長を呼んでもらう。


『もしもし? チカが何かしましたか?』


 落ち着いた、大人の声。年齢は判らないけど、少なくとも精神年齢は僕よりもずっと上だろうと思った。

 何もかもを主真に任せていたから、話すのは初めてだ。


「何も。チカ君には良くしてもらってます。だから、もう一度お願いできませんか」

『はい?』

「もう一度、同じ条件で、このまま続けて」

『…チカには、このことは?』

「まだ言ってません。直接、こちらで決めていいですか?」

『いえ。そうですね、私から話します。ただ…。あなたにこんなことをお話しするのは筋違いかも知れませんが、チカには借金がありましてね。長期間離れると、それだけ常連客も離れかねません。そう考えると』

「どのくらいの額ですか」

『それは…』

「それなら、完済できる分だけ期間を延ばしても構いません」

『…一度、チカと話します。しばらくお待ちいただけますか』

「はい。お願いします」


 声だけでも、こちらを牽制けんせいしているのもいぶかっているのも判る。

 通話を終えて、即座に主真の番号にかけた。こちらも、数コールして出た。


『どうした? 次の件か?』

「そうじゃないけどそうでもある」

『はぁ?』


 思い切り怪訝けげんそうな声に、叱られるかも、と思う。いや、呆れられるだろうか。だけど、仕方がない。


「さっきチカ君のお店に連絡してもう一回継続してほしいって言った」

『…お前が?』

「僕じゃなきゃ誰が」

『いやだって。お前にも恋愛スイッチあったんだな』

「これ、そうなのかな…」

『知らねーよ。違うのか?』


 どうだろう。よくわからない。ただ、チカ君に他の人が触れるなんていやだと思った。


「…ただの独占欲かも」

『色恋なんてそんなもんだろ。で、相手の返事は?』

「まだ」

『そうか。じゃあ、どうなるか決まったらしらせてくれ。メールでいい。寝る』

「え。待っ…」


 通話が切られた。

 もう少し付き合ってくれても、と思わなくはないけど、寝ていたのに電話に出てくれただけ、ありがたがるべきなのだろうか。いや、主真のことだから、今から寝るのかもしれない。

 携帯端末の画面が黒くなるのを、ぼんやりと見つめる。

 店主が、賛成なのか反対なのかはよく判らなかった。チカ君も、ただ仕事だからとこの一月足らずをやり過ごして来たのか、少しでも僕といる時間を楽しんでくれているのかも判らない。

 いやそもそも、結局仕事としてチカ君を買うのに変わりない。


「…しくじった…?」


 とにかくチカ君がここを出てしまうのを、誰だか知らない客に触れられるのを阻止そししないとと、それで一杯になっていたけど。

 これってどうなんだろう。

 札束で頬を叩くとか、そういう感じの悪い方法じゃないだろうか。

 鳴らない携帯端末を握りしめて、大きく吐き出した溜息とともに力が抜けていった。

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