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<アキト>

 ソファーに横になると、すかさずチカ君がパンダを寄り添わせた。ややあって、何かやわらかい、布のようなものもかけられたようだった。


「…ほんとに、パンダばっかり持って来るんですね。好きなんですか?」

「この間抜けそうなところとか、何考えてんだかわからないところだとか、こいつを思い出すんだよなあ。ほら似合う、パンダなりきりブランケット」

「パンダのお腹は別に黒くないみたいですけど」

「なんだ知ってるのか」


 主真カズマの声も、チカ君の声も、少しかたい。

 硬いというか、からまとっている。余所よそ行きの感じ。

 もっとも、主真はともかくチカ君のことは、本当はそんなには知らない。でもなんとなく、警戒しているような気配は感じられる。

 起きて仲裁に入った方がいいのかとも思うけど、ひどく眠い。多分半分、眠っている。


「そうだ、チカクンにもお土産」

「俺に?」


 心底意外そうに、だからこそが出ている。多分。きっと主真は、腹黒そうに笑っただろう。


「犬?」

「狼」

「…俺に?」


 戸惑とまどうよりも、何かをうたぐるような声。

 率直さに、案外チカ君は、僕よりも主真の方が馬が合うのかもしれないとも思う。ずるい。

 しばらく間が空いたのは、主真が何かを食べて、咀嚼して、飲み込んだからだった。

 あれで、口の中にものが入っているときにしゃべらないといった最低銀のマナーは守る。

 そう言えば、チカ君も。綺麗な食べ方をする。


「一匹狼なんてのは本来はイレギュラーで、狼は群れの生き物だ」

「…だから?」

「手触りいいだろ。素直にもらっとけ」

「パンダで足りてます」

「そもそも、ぬいぐるみなんて押し込んでそのままだったと思ったけどな。なんでここに居るんだ?」


 この家にクッションがなかったんだ、と、ここで僕が割り入っても、呆れられるだけで終わるだろう。

 もっとも、半分眠っていて起きられないのだけど。


「よくわからないけど、ずっと居ますよ。パンダも狼もふかふかなのは、高埜タカノさんの趣味ですか?」

「ん? どうせなら手触りいい方が嬉しいだろ?」

「はあ…まあ、そうですね…?」


 チカ君は、きっと首をかしげているだろう。ワイングラスを片手に、不思議そうな顔で。

 スケッチしたい、とは思うのに、目が開かない。


「アキトさん、ベッドに運んだ方がいいですかね?」

「いや。こいつはアルコール入れたらすぐに寝るけど、すぐ起きていくらでも飲み食いするから、ほっといていい」

「はあ…?」


 納得のいっていない風のチカ君は、三人で夕飯を食べ始めてからずっと、同じくらいのペースでグラスを傾けていた。

 もしかして、今もそうなのだろうか。


 数日前、一回目の契約期間が終わった直後に、僕とチカ君は主真の事務所でチカ君の所属するシャングリラの店長も同席して話をした。

 結果、次の契約は四か月。

 話し合いの日から一週間の無契約期間を終えると丁度七月の始まりで、そこから十一月の終わりまでという話になった。

 以降は、双方が希望するなら一か月ごとの更新。

 多分、当初は誰も考えていなかったような決着で、主真を除く三人全員が、ちょっと不思議そうな顔をしていたのを覚えている。

 主真は、表情に出さないからどう思っていたのかよくわからない。やっぱり意外だったとしても、実は思い通りだったとしても意外ではない。

 その契約開始は明後日からで、いた一週間はそれぞれ好きに過ごす事になって、チカ君は荷物をまとめたり挨拶をしたりで開始日には戻るということで、僕は一人で帰路に就いた。

 だから当初の予定通り、いつものようにハウスクリーニングを入れたりひたすら書架の画集を眺めたり落書きをしたりで過ごした。

 ほんの数日が、ひどく長かった。

 おまけに、このまま夏に向かうというのに、どこかすうすうと寒かった。仕方なく、眠るときには大小のパンダに挟まれて寝たくらいに。

 予定よりも早く戻ったチカ君は、主真を連れていた。

 いや、逆で、いつものように遊びに来た主真がチカ君を連行してきた。


『だって方向一緒だろ。車乗ってくかって訊いたらついて来た』

『………この人に運転免許出したなんて、何考えてるんですかね、日本の警察』


 どうして警察、と思ったら、運転免許の発行は警察の管轄なのだという。取ろうと思ったこともなかったから、知らなかった。

 チカ君も持っていないというのに、物知りだ。

 車酔いで死んだ目をしていたチカ君は、それでも、夕方になると料理の準備を始めていた。しかも、この家にはないからと炊飯器や圧力鍋といった調理器具や食材までそろえて。

 契約中に渡していた小遣いから出したと謝られたけど、むしろ、使い切っていなかったのかと驚いたくらいで。

 でも考えてみれば、あの間にチカ君が買ったものといえば、パンや野菜や調味料。

 街に出る交通費さえ、「森の小麦」の手伝いをねて車に乗せてもらっていたと言っていたから、使っていなかったのだろう。

 結果、主真とチカ君が買ってきていた料理や冷蔵庫や冷凍庫のあれこれが温め直され、チカ君がスープや玉子焼きなんかを作ってくれ、雑多に豪華な夕飯になった。

 準備中、僕はそわそわと皿を出すくらいしかできず、主真は酒選びだけに時間を使っていた。


「チカクン、今何歳だっけ」

「履歴書出したから、生まれ年わかりますよね」

「八月で二十一」

「そう言う高埜さんはおいくつですか」

「今年で…三十二だったか三だったか。アキが同じだから、気になるなら訊いてくれ」


 こっちにふられても困るな、と思う。

 引きこもっていて年齢の確認が必要な事態が少ないから、僕も主真と同じように、いやそれ以上に、自分の年齢があやふやだ。

 二人で三十を超えた話はしたからそこは覚えているけど、それが何年前だったかとなると。

 こっちも、生まれ年から計算した方が確実だ。

 一体、チカ君はどんな表情をしただろう。眼を開けられないのがもどかしい。

 色々と意識は動いているはずなのに、絵を描いているときとはまた別の調子で、現実との間に壁がある。


「最終学歴は? 高校は出た?」

「…高埜さんとアキトさんって、どういう関係なんですか」

「おーい、こっちの質問に答えずに質問してくるなよ」

「違ってたら悪いですけど、俺のこと、調べてあるんじゃないですか」


 そう言えば、そんなことも言っていた気がする。モデルに斡旋あっせんしてくれる子は、軽く調査するって。

 例えば、妙なのの愛人が小遣い稼ぎにでも来たらまずいからって。

 主真は、そのあたりは顔がく。らしい。


「それなら、わざわざ聞く必要ないですよね」

「情報として知ってるのと本人が何をどうとらえてるかとは別物だろ。高校、卒業扱いになってるぞ、お前」

「え…?」


 軽くテーブルを指先で叩く音がした。タバコが吸いたくなっているのだろう。家の中は禁止してある。


「父親の借金を背負い込んだままお袋さんが亡くなったのが高三の年明けだっけ? それからどうにもならなくなって地元出て。それまでちゃんと通ってたから出席日数は足りてたし、期末試験もぎりぎり受けられたんだろ。担任の先生が掛け合ったらしくてな。卒業証書を預かってるからそのうち会いに来いって連絡先預かってる」


 チカ君の応えがないまま、主真が、多分ワインを飲み干した音がした。


「アキは、幼なじみで恩人で顧客だよ。ちっさい頃はお隣さんで、中学ぐらいにうちが夜逃げしてそれっきりだったんだけど、今のお前くらいの時に再会して、学費出してもらったおかげでこうやって弁護士やってられるって関係だ」

「は…?」

「闇金滅べ、って思うよなあ」

「うん、は、いや、それは思うけど、え?」


 混乱しているのが判る、チカ君の声。

 そうか、と思う。

 チカ君と主真の経歴は、少し似ている。親の借金を返す羽目になったこと、今は身寄りがないこと。そんな状況になっても、しっかりと強く生きていること。

 だから主真は、チカ君に関わろうとするのか。今までは、モデルの子には契約書にサインをもらうときくらいしか会おうとしなかったのに。


「中二の時、親父が事業に失敗して色々あって最終的にやーさんとかが関わってる方面に債権が流れてな。ある日、高校から帰ってきたら、夜逃げしてきた狭い部屋の中で二人首吊ってぶら下がってた。なんで俺だけ置いてったんだろうな。ガキなら見逃すと思ってたのか。自棄になって取り立て屋の事務所に殴り込んだらたまたまやーさんとこの組のトップがいて、なんか気付いたら、恩返しできるなら学費出してやるって話になっててさ。弁護士になって法律の網かいくぐって大儲けしてやらぁって必死に勉強して、後は大学卒業間近に司法試験受けて通って研修受けて、って大学の卒業証書と弁護士免許としっかり確保するつもりでいたのに、試験直前にトップが死んじゃってな。最後の半期分だったのに。跡継ぎは俺なんかむしろ邪魔くらいに思ってたから、残りの学費出してくれない上に棚上げされてた借金も返せって来て、どーすっかなこれ、って思ってたらバイト先でアキに遭遇した」

「…バイト?」

「キャバクラの客引き。その頃、アキの方でも色々あって、生前贈与ってそこそこまとまった金押し付けられて家追い出されて。キャバクラで大金散財できると思い込んでた馬鹿がいてな。そりゃ使えないことはないが、程度ってものがあるよな、初見じゃあ」


 そう言えばそうだった、という思いと、そんなことを考えていたのか、というのと。

 今考えると、押し付けられた手切れ金に腹が立ったからといって、無駄に散財しなくても寄付でもすればいいのに、となる。

 結果として、主真に再会できて今につながるわけだから、良かったのかもしれないけど。

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