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<チカ>

「荷物、少ないですね」


 何かをそらしたかったのか、今更な感想がこぼれ落ちた。

 美琴ミコトさんは、大きめのトートバックをちらりと見て、不思議そうに首をかしげた。


「そう? ノート入れるから大きめのカバンにしたんやけど」

「え。でも、泊まりですよね?」

「え?」

「え」


 思わず、お互いにまじまじと顔を見合わせてしまう。純粋に、意外そうな感情しか見えない。

 ――まさか。

 この部屋には時計がないので、携帯端末に触れて時刻を表示させる。

 二時五十四分。一段落着いたら、お茶とお菓子の用意をしようかと思っていた、予想通りの時間。


「最終のバス、あと十五分くらいで出ます」

「ええっ?! 嘘!? 早すぎやろ!」

「平日はもう一本あるんですけど、土日祝日は…」

「…田舎怖い! ごめんとりあえず帰ります!」

「間に合わなかったら戻ってきてください」

「うん!」


 脱兎だっとのごとく、という言葉を思い出す素早さで駆け去って行く。

 歩いて二十分ほどのバスの停留所は、終点で始発なのでほぼ定刻通りに出発する。走る速さにもよるけど、間に合わないこともないくらいの時間。

 もっと早く気付けばよかった、と思うけどもう遅い。

 昼前にやって来てのんびりとしていたから、てっきり泊まって行くのだと思い込んでいた。

 ――ダメだな。

 深く息を吐いて、頭をふる。

 お茶や夕飯の用意は、美琴さんがバスに乗れたかどうかがわかってからの方がいいだろう。

 そうなると、とりあえずはやることがない。


 肩越しにアキトさんのスケッチブックを覗き込む。

 キャンバスにえがくときにはたった一本の、あらかじめそこにあったかのような線が引かれるのに、そこには、何本も重なった線がある。

 迷っているというよりは、選べないというような力強さで。

 一人でスケッチブックに向き合っているアキトさんは、何を見ているんだろう。

 それまでのスケッチを見るでもなく、モデルを求めるでもなく、ただひたすらにするすると絵をいていく。

 描き出される花魁おいらんを眺めていると、携帯端末がふるえた。


『泊めてください』


 ――ダメだったか。

 ついさっき交換したばっかりの連絡先から、スタンプ付きでメッセージが来た。土下座姿のクマ。

 こちらもスタンプで、お待ちしてます、と返しておく。

 美琴さん、明日何か用事があるんだろうか。日曜だから、土日休みの会社ならあそこまで慌てなくてもいいような気がするけど。

 ペットを飼っているという可能性もあるか。それか単純に、泊まりの用意をしていないから嫌だとか。

 少し待って本人に聞けばわかるだろうことをつい考えながら、そっと立ち上がる。

 騒いだところでアキトさんの集中が切れることはないだろうけど、邪魔になりたくない。音を立てないように廊下に出た。


『食べ物のアレルギーとか好き嫌いある?』


 ――ん?

 バス停からこの家までの間に、パン屋の「森の小麦」がある。


『アップルパイがあれば』『紅茶を入れて待ってます』


 匂いにつられてか、看板や店構えを見てか、発見したそこで宿賃代わりにパンでも、と考えてもおかしくはない。

 すぐに返って来たスタンプは、アニメか何かの「すべてお見通しだ!」というものだった。いや、逆。


 とりあえずヤカンを火にかけて、皿とティーカップを用意する。

 来客があると聞いて冷凍庫から冷蔵庫に移していたレアチーズケーキは、夕飯の後でもいいだろう。

 代わりに、夕食の時にと思っていた、無人販売所にあったスモモを洗う。

 ガラスの耐熱ボウルの中で、蛇口から流れる水に浮かんでくるくると回る赤い実を、ぼんやりと眺めていた。


 ――夢の中にいるみたいだ。


 おいしいものを食べて、ゆっくりと眠れて、気楽なとりとめのない会話もあって。のんびりと時間が過ぎていく。

 今日明日の心配はしなくてよくて、いやなことを金のためと割り切ってする必要もない。

 金で買われていることには変わりなくても、アキトさんはやさしくて、少なくとも、金を払っているのだから俺をどう扱ってもいい、とは思っていないと感じられる。

 うっかりすると、大切に想われてるんじゃないかと勘違いしそうになる。


「チカ君」


 声と同時に、後ろから腰を抱かれた。ぺたりとくっつかれて、右肩にあごを乗せられているのがわかる。

 対面型のキッチンで、廊下に続く扉は真正面。どう考えても入ってきたらわかるのに、全く気付かなかった。

 どれだけぼんやりしてたんだか。


「…アキトさん?」


 抱きついて名前を呼んで、その先がない。

 顔を見ようにもがっちりとしがみつかれていて、あまり体重はかけられていないのに身動きが取れないという絶妙さで、体の向きも変えられない。


「何かあった?」

「…いなかった。チカ君が。パンダも何も持ってないし」


 息が首筋にかかってくすぐったい。

 集中が切れて、見回しても部屋にはいなかったから探しに来た、ということだろうか。

 最近、出かけるときにはパンダにメモを持たせるようにしていたけど、それもなくて、と。

 ――大げさだなあ。

 ぎゅっと、すがるように抱きしめられて、こそばゆさを感じる。迷子じゃないんだから。

 見つかったんだから離して、と言おうとしたところで、するりとアキトさんの右手がほどかれた。シャツをめくりあげて、肌に直接触れてくる。


「…っ」

「ベッドに行く?」


 耳元でささやく間も、逃がさないようにするかのように腰に巻き付けた左手と、そういった意図をもって触れてくる右手と。

 思わずうなずきそうになって、視界の端にひっかかった赤色にはっとする。出しっぱなしの水道水の水音も戻ってきた。

 あわてて、アキトさんの手を押さえる。


「だ、だめっ!」

「…どうして?」

「美琴さん戻って来るから! そろそろ! すぐ!」

「…ミコト…?」


 知らない単語を耳にしたかのように繰り返し、かなり間をおいてから、ああ、と声がした。

「そっか、呼んで…んん? 終バス? 乗れなかったんだ?」


 記憶の巻き戻しとでも呼ぶのか、アキトさんが絵を描いている最中に聞いていないわけではない、というのは本当だった。

 ただ、呼び起こすのに時間がかかるし、きっと、必要がなければそのまま忘れてしまうのだろう。

 とにかく、聞こえていればそれなりに再生可能、らしい。どんなアタマの作りになってるのか。


「アップルパイ買ってきてくれると思うから、お茶にしよう?」

「はーい」


 アップルパイはアキトさんの好物で、仕方ないなあ、と言いたげに返事をする。

 これで離れてくれる、と安心したら不意打ちでささやきかけられた。


「じゃあ、続きは夜までおあずけだね」

「え。いや、美琴さん泊まり…」

「離れてるから大丈夫だよ。…いや?」

「っ」 


 昨日はシてないから、今日は、とは思っていた。

 ほぼ一日置きなのはきっと俺の体を気づかってのことで、この人の性欲はどうなってるんだと思わないでもないけど、結局、期待してしまっているところもある。

 ――断れる、わけがない。


「…いや、では、ない…けど」

「けど?」

「…朝も美琴さんいるし、手加減をお願いします…」

「努力はする」


 あまり信用できなそうな言葉に、呆れればいいのか期待すればいいのかもわからない。

 ――いや期待って。

 顔の見えない位置でよかった、と思う。

 今、自分がどんなカオをしているのかがわからない。そんなものを、アキトさんに見られたくない。

 そこまで考えて、こっそりとため息を押し潰す。

 やっぱり、こんな生活、終わるときには今までみたいに切り替えることなんてできないんだろうと思うと気が重い。

 美琴さんだろう、玄関のチャイムの音にアキトさんの腕を外しながら、もう一度溜息をのみ込んだ。

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