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<アキト>

 ふっと、意識が浮上する。


 広げたスケッチブックには、ところどころ素肌をのぞかせながら全身を包帯でおおった人が、片膝を抱えるようにして座る姿が描かれている。両目も包帯で覆われているのに、持ち上げられた口の端に色香が漂う。頬は桜色に染めた方がいいだろうか。

 もう一度潜りかけて、はっとなる。

 いつもの部屋で、ソファーにパンダは座っているけどチカ君はいない。その胸のあたりに、「リビングに来客」とメモが張り付けてある。

 そうだった。


「来客…?」


 主真カズマ美琴ミコトも来る予定はなかったはずだ。他に、ここに来るような人なんていただろうか。

 と、チカ君が声をかけてくれた時に言えれば良かったのだけど。

 その時は、チカ君の声は聞こえても隔てられていた。

 視線も向けなかったから、困ったような顔をしていたんだろうというのも、声からの想像でしかない。

 とにかく行ってみようと足を向ける。


「?」


 リビングの扉を開ける前に、鈍い音がした。何か、重みのあるものを落としたような音。

 中からだ。


「チカ君…?」


 扉を開けてすぐ、ソファーの背越しにこちらを振り向いたチカ君と眼が合った。どこか怯えたような色に、急いで駆け寄る。

 思わず伸ばした手は、びくりと身をすくめられて戻してしまった。

 ソファーの向こうでは、男が一人、床の上で悶絶している。


「…誰?」

「…同窓生だと言ってました。ご友人だと」


 わずかに乱れた服を整えて、ソファーに身を起こしたチカ君がやや冷たい声音こわねげる。

 そう言われても思い出せず、一体何があったのかと問いかけて、男の濁った声にさえぎられた。


「そいつが! そいつが誘って来たんだっ!」


 チカ君を見ると、気付いているだろうのに目をらしたまま、無言。

 男を見ると、顔を真っ赤にして、虚勢を張るように睨み付けてきた。

 少し、考える。


「何があったのか聞きたいから、場所を移そうか。立てる? 君は、少しここで…奥の部屋で、待っててもらえるかな」


 チカ君は無言のままうなずいて、静かにリビングを出て行った。

 男はと言えば、勝ち誇ったかのように顔を歪めた。

 確かに、少し見覚えがある気がする。同窓生というのは嘘ではないのかもしれない。


 リビングを出て、チカ君が向かったのとは逆の方に曲がる。

 左翼の一番手前の部屋が、一応、応接室になっている。ただ、来客を通したことは多分ほぼなくて、ハウスクリーニングの業者が来た時に拠点に解放しているくらいだ。

 腰が引けたまま、向かい合わせのソファーに座るのを待って、一度下ろした腰を即座に上げる。


「少し待っていてもらえるかな。お茶も出せなくて悪いけど」


 リビングのテーブルには、ちゃんとお茶も茶菓子も用意されていたのに。


「は? あっ、おい」


 声は無視して、さっさと扉を閉める。鍵も忘れずに。勝手に歩き回られてはたまらない。

 右翼の端、いつもの部屋に戻ると、チカ君は何故かソファーには座らず床に腰を下ろして、パンダを抱えてぼんやりとしていた。


「チカ君」

「…早かったですね」

「まだ何も聞いてないからね。先に、話ができるなら聞こうかと思って」

「……後で、いいです」


 敬語に戻ってる。それは、距離を置きたいということだろうか。


「わかった」


 寝室に足を向ける。

 ベッドのかたわらに寄り掛かっている大パンダをかつぎ上げると、ソファーの上、チカ君の背に当たるあたりに下ろした。

 うっかり、のしかかる形になってしまったので角度を調整する。

 何事かと目をみはるチカ君に、笑いかける。ちゃんと笑えてるだろうか。


「パンダたちと、待ってて」


 小パンダに顔をうずめるのを返事として、きびすを返した。


 何が起きたかの想像はつく。あの男が痛そうに押さえていた股間と、口走った言葉とで。

 だけどそもそも、あれは何者で何のためにこんなところまでやって来たのか。

 事前連絡もなく、というのは、メールやメッセージを無視していた可能性もあるから断言はできないけど。

 それでも真っ当な社会人なら、親しくもない相手のところに返事ももらえないうちに押し掛ける、なんてことはしないだろうに。

 真っ当でもないし社会人かも怪しい身としても、それくらいは判る。


「遅い。客を待たせるな、こんな何もない部屋で」


 尊大な言いようは、地金なのか虚勢なのかわからない。部屋に鍵をかけて行ったことに気付いたのかどうかも不明だ。

 低いテーブルを挟んで向かい合わせに置かれたソファーの片方に腰かけたまま、立ち上がろうともしない男を見る。

 見覚えは、あるようなないような。やや太めの眉毛と線の濃い顔立ちがいかにも我の強そうなところをうかがわせるが、さて。


「どこの誰で、用件は?」

「忘れたのか? ひどいな」

「うん、忘れた。そもそも覚えてたのかもわからない。だから、ちゃんと初対面の自己紹介をしてもらえるかな」


 感情は載せず、立ったまま淡々と。

 よほどでなければ、歓迎されていないと悟るだろう。主真に大笑いされそうなくらいにあからさまにしている。

 男は、いらだたしげに眉根を寄せ、ややあってからわざとらしいくらいの笑顔を作って見せた。


「どんな話を聞かされたのか知らないけど、意地悪をしなくてもいいだろう? 同じ学校で学んだ仲間よりも、まさか、あんなのの話を信じるのか?」

「…そっちがいいなら、先にその話からしようか。一体何があったんだ?」

「折角いい話を持って来てやったのに随分と待たせるからあやしいとは思ってたんだ。お前に面倒を見てもらってるのに、ちょっと火遊びでもしたくなったんじゃないか?」

「何が、あった?」

「…あっちが誘って来たんだ。じゃなきゃ、男なんかに手を出すわけないだろ。あんな…」

「もういい」


 いい加減、いらつきが勝った。用件も話さず言い訳を繰り返して、一体何がしたいのかすらわからない。

 何よりも、「手を出」したとはっきり言った。


「帰ってもらっていいかな」

「っ、まだ何の話も」

「話をしようとしなかったのはそちらだろう。僕に用事はない」

「うちの画廊に絵を置いてやってもいいって言ってるんだ! こんな機会、もう二度とないぞ!?」


 画廊の名前の入った名刺が突き出される。見たところで、画廊にも、個人の名前にも、覚えはない。

 もしかすると一部では有名でありがたがるようなものなのかもしれないけど、僕の生活には関わりがない。


 中途半端に腰を浮かせた男は、みにくいかおをしていた。


「頼んでもないのに押しかけて来られてもね。こんなところで時間を浪費するよりも、その名刺をありがたがってくれるところに行った方がいいんじゃないかな」

「…後で後悔するぞ」

「後悔は、前ってはできないだろうね」


 一際ひときわ醜いかおで睨み付けて、男は鞄を鷲掴わしづかみにして立ち上がった。

 捨て台詞が飛び出るかと思ったけど、そのまま何も言わずに荒々しく部屋を出て行く。

 一応、ちゃんと出て行くかを見届けた方がいいだろうと後を追う。

 さすがに、この状況になっては勝手に他の部屋を覗くということもなく、最後まで無駄に足音を立てて去って行った。

 まだ昼前だから、さすがにバスもあるだろう。終バスが出た後だとしても、泊めてやるつもりもないけど。

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