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<アキト>

 鍵を閉めて、気付けば小走りになっている。

 大した距離でもないのに、と思うけど、早くチカ君の顔を見たいという感情に素直に従っておく。


「チカ君」


 相変わらず床に直接座ったまま、大パンダにもたれて、小パンダを抱えている。

 一度はこちらに向いた視線は、すぐにらされた。


「…ごめんなさい」

「…何があったのか、聞かせてもらえる? 無理だったら、今じゃなくてもいいよ」


 ゆっくりと近付いて、眼を合わせてしゃがみ込む。

 頭をでると、逃げるようにうつむかれてしまった。それでも、手は振り払われない。

 一度、深く息を吸い込むのが判った。


「アキトさんの、友人だって言ってたのに。絵を、依頼しに来てたのに、俺が…。…思い切り、金玉蹴り上げて」


 ふいた。


 びくりと、一瞬身をすくめたチカ君が、呆気に取られて見ているのが判る。


「っ、ごめん、ちょっと面白くて、抱きしめていい?」

「は? え? はあ?」

「あ。あー、えっと…触れても、大丈夫…?」


 少し変えた言葉を、意図を、み取ったのが判った。

 途端とたんに何かを隠した湖面のように、チカ君の眼が不自然にいだ。

 そんなかおを、させたかったわけじゃないのに。

 顔を上げて、僕と眼を合わせて、チカ君は笑った。つくりものの、綺麗な微笑。

 綺麗で、完璧で、固く殻におおった本心を隠す笑み。


「気にしないでください。お客さんに乱暴に扱われることも珍しくはないし、慣れてます」

「守れなくてごめん。僕を、画家としての僕を守ろうとしてくれて、ありがとう」


 思わず握った手は、少し冷えているように感じられた。熱を分けるように指先を包む。

 どのくらい、黙ったままそうやって向かい合っていたのか、チカ君と僕のてのひらがじんわりと汗をかきはじめたころ。


「どうして」

「うん」

「…怒らないの」


 ぽつりと、雨垂あまだれのような言葉が落ちた。


 言おうとしたのは違った言葉だったのか、しまった、と言いたげな表情がかすめ、慌てて開かれた口からは、だけど、言葉は出なかった。

 声になるより先に、僕がさえぎってしまった。

 手だけで、指先だけで我慢していたのに、もう駄目だ。手を引いて、かたむいた体を受け止めて、腕の中に閉じ込めてしまう。


 ――この子が、欲しい。


 どうしようもない愛おしさは、きっとずっとあった。

 ただ、やり過ごしてしまって、ぼんやりとしか感じられずにいただけで。

 だってその感情は、僕を変えてしまう確信があったから。


 変化は、怖い。


 変わらなければ、同じことの繰り返しなら、恐れることなんてない。

 平坦に、平穏に、日々をやり過ごして行ける。気付きさえ、しなければ。出会わなければ。   


 でも、出会ってしまった。

 気付いてしまった。


「チカ君」   


 呼んでから、別のことに気付く。

 今、僕はチカ君を「買って」いる。お金を払って、ここに居てもらって、モデルや夜伽よとぎすらしてもらって。

 対等には程遠い状況で、僕はチカ君の本当の名前すら知らないし、チカ君も僕の名前を知らない。

 それで、何を望めるというのだろう。


 嫌われてはいないと思う。だけど、どの程度、どう好かれているかはわからない。

 チカ君にとっては、ただ、苦にならない「客」だけでしかない可能性だってある。

 いや、いろいろと我慢してくれていても、僕は気付けないかも知れない。


「もしも、僕の友人に悪いことをしたんじゃないかとか仕事の口を減らしたんじゃないかと思ってるなら、気にしなくていいよ」


 咄嗟とっさに、逃げてしまった。


 まだ契約の期間は半分以上も残っていて、気まずくなったらいやだし途中でももう終わりにしてほしいなんて言われたら落ち込んで浮上することなんてできなくなるかもしれないし、借金があると言っていてそれの完済ができるくらいの期間を契約したから、途中で止めてもしもチカ君がまた他の客を取るなんてことになったら。

 なんて、言い訳はいくらでも浮かんできた。

 要は、この手を振り払われるのが怖いんだ。


「まず、僕の友達なんて主真カズマくらいしかいない」

「え」

「だから、友人だって言ってくるのは自称友人だと思ってくれていいし、本当だったら時間をく必要もないくらい。追い返しても当然だよ」

「いや、あの、堂々と言うこと…って美琴ミコトさんは? 追い返したらダメな人でしょ?」

「ああ…友達、ではない…かなあ」


 思わずといった風に体を起こし、密着していたチカ君が離れる。

 いた空間に、隙間風が吹き込んだ気がした。冷房を入れて窓も開けてないから、空気の動きなんてないのに。    


「じゃあ何」

「何って……仕事仲間…?」


 それならまだいいかな、と一人納得して、チカ君は座り直した。

 意図してなのか無意識か、あからさまに距離を取ったりはしなかったけど、腕の中に戻ってはくれなかった。

 会ったのは一度きりのはずなのに、どうしてそんなに気にするのか。美琴に、軽く嫉妬していることに気付いてゆるく首を振る。


「とにかく、今僕が親しくしてるのはその二人くらいだから、他は気にしなくていいよ。それに、主真や美琴だったとしても。チカ君が厭だと思うようなことをするなら、蹴り出してやればいい」

「でも…」

「それで僕との関係がどうなるとかは気にしなくていい。むしろ、そんなことをするような奴と友人でなんていたくない。チカ君は…チカ君が、厭な想いを我慢する必要はないんだよ。僕が相手でも」


 もう一度手をつかんで、厭?と訊くと、チカ君は即座に強く首を振った。

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