スケッチブックをめくると、鉛筆の粗削りな線なのにびっくりするくらい生々しい絵が現れる。何枚も、何枚も。
スケッチブックは、時には丸々一枚、それだけで飾れそうなくらいの絵が描かれていたり、目やあごのラインといったパーツがいくつも描かれていたり、服のひだがクローズアップされて納まっていたりと、まとまりがない。でも。
――すごい。
いくらでも見ていられる。
そんな絵がぎっしりと詰まったスケッチブックが何十冊とあって、自由に見ていいなんて、どんな贅沢だろう。
「自称友人」を追い返した後、立ち入り禁止と言われていた家の半分も案内してくれた。好きに出入りしていいと言って。
『こっちはあんまり使ってないんだけどね。奥が寝室だけど、今は着替えを取りに行くくらいだし』
そういって、客間や応接室、空き部屋、二部屋を繋げたくらいに広い保管室を見せてくれた。
保管室は湿度や温度を一定に保っているらしく、扉の開け閉めだけは注意してほしいと言われた。
完成した絵が数枚と、棚をひたすらに埋めるスケッチブックがおさめられていた。
『別に使ったりはしないんだけど、捨てるのもなんとなく忍びなくて、溜まっちゃうんだよね。これでも一応、ここに移る前のやつは処分したんだけど』
もったいない、と思わず転がり出た言葉に、アキトさんはきょとんとしていた。
前からうっすらと気付いてはいたけど、アキトさんは、いろいろとなげうつように絵を描くことに打ち込むくせに、出来上がった絵の価値というものには無頓着だ。
金額がどうこうという話ではなくて、それをすごいとかすばらしいと感じる人がいる、ということにぴんと来ていないように思える。
――こんなに、きれいですごいのに。
絵の依頼者が絶えないのも、ラッキーくらいに思っていて、それだけの実力があるとか求められているとかは気付いていないような気がする。
流れで、美琴さんが衣装を担当していない分の絵も観たいと言っていたと伝えると、やはりきょとんとして、そのくらい言ってくれればいくらでも見せたのに、と首をかしげていた。
タダ観できるものじゃない、という感覚はないんだろう。
――どうしてなんだろう。
唯一友人認定していた
そもそも、原因があったとして、俺が知ったからどうなんだ、という話でもある。
どうせ、最短あと二月ちょっとでここを出ることになるのに。
「チカ君、またここにいる。そんなに見てて面白い?」
「アキトさん」
絵の仕上げ段階に入っていたアキトさんが、ひょいと顔をのぞかせる。集中が切れたんだろうか。
お腹がすいたとかかな、と思って時計を探すけど、この部屋にはないんだった。
扉を閉めて歩み寄って来たアキトさんは、俺の手にしているスケッチブックをのぞき込んで、「わー」と低くつぶやいた。
「荒いなあ。これ、移ってきてすぐくらいのじゃない?」
「覚えてるの?! これ全部!?」
思わず、棚を見る。
実際、書きこまれている年月日からしても置かれている位置からも、始めの方のやつだから正解だ。
年月日は描き始めに入れるようで、今開いているのはその日の三枚目くらいだから、日付は入っていない。つまり、純粋に絵だけを見て判断したことになる。
「覚えてるわけじゃないけど、絵の感じとかで」
それはそれですごい、と思いつつ、「とか」に引っかかる。実は、気になっていることがあった。
描かれるのは、衣装や背景にする風景や小物もあるけど、やっぱり人物がメインになる。
モデルが変わると当然顔も変わって、数枚から十数枚で人が変わっていく。だけど、最初の方の何冊かはずっと同じ人だ。
はじめは専属で同じ人にずっとモデルをしてもらってたのか、もしかして、恋人だったとか。
これも、聞いてどうするんだというやつで。気にはなるけど、きっと解決することもないだろう疑問だ。
「どうせなら、画集とか見た方が楽しいんじゃない?」
「これも画集だと思う」
「いや、そういう意味じゃなくて…」
困ったように首をかしげるアキトさんに、本当に、俺がアキトさんの絵を見るのが好きだっていうのも伝わってないんだろうと思う。少し、さみしいような気分になる。
そっと、スケッチブックを閉じて棚に戻す。
「何か用事だった?」
「ああ…いや、用事というか…お昼ご飯、一緒に食べない?」
やっぱりそんな時間だったのか。
うなずいて、立ち上がろうとしたらごく自然に手を差し伸べられた。どこの王子さまだ、と突っ込みたくなるのをこらえて、手を借りる。
――何なんだろう、この人。
いい加減、あまやかすのをやめてもらいたい。そう思うのに、むしろひどくなる一方で。
でも、それを口にしておさまったら、それはそれで残念だと思うだろうとも思う。
「スケッチブック、気に入ったならあっちに持っていってもいいよ?」
描き上げた絵は購入者がいるし保管のために空調を入れているから、触らないように、戸の開け閉めや戸締りにも気をつけてほしい、とは言われた。
だけど、部屋の鍵の場所をあっさりと教え、スケッチブックに至ってはそんな扱いだ。
――信用、とも違うよな。
古い絵を恥ずかしがることはあっても、大切には思っていない。価値があるものとは考えられない。
結局のところ、そういうことなんだろう。
「焼き飯作ろうかと思ってたんだけど、オムライスとどっちがいい?」
「えっ…。チカ君、ほんとに何でも作れるね」
「大げさ」
「そんなことないよ。魔法使いみたいだなっていつも思ってる。まるで簡単みたいに作るし、美味しいし」
――どっちが魔法使いだか。
「…アキトさんも、少し練習したらできるようになるって。試してみる?」
ムリムリムリ、と勢いよく首を振るのに笑ってしまった。
まあ、言っておいてあれだけど、多分アキトさん、火を使った料理はむずかしいだろうなあ。
月に一度はハウスクリーニングを入れるし、その時に面倒な洗濯物も預けるという生活のアキトさん。
さすがに日々の洗濯物と食器の洗い物は溜まるので、それらは片付けている。
一応俺もやるけど、起きる時間が遅いのと抱かれた次の日は昼くらいまではダウンしてることが多いのとで、ほとんどはアキトさんがやってくれている。
ただ、途中で他のことが気になって中途半端に投げ出されている、というのはたまに見かけて、多分、俺が気付かないうちに中断してから再開している、というのはもっとあるんだろう。
洗濯や洗い物はそれでもいいけど、料理中にそれをやったら、最悪、火事になる。
本人も自覚があるのか、あまり火を使おうとはしない。電子レンジや電気ポットで大体は事足りる。
湯せんを、鍋で湯を
せめて、ガス台じゃなくてIHに替えたらいいのに。
「オムライスがいい」
「わかった。卵、普通に焼くのと切り開くのどっちがいい?」
「切り開く?」
ニンジンとタマネギを出して、冷蔵庫からはアキトさんが苦手っぽいピーマンの代わりの彩りのパセリと、ベーコンと卵を、と手を伸ばしたところで動きを止める。
アキトさんを見ると、カウンターの向こうで不思議そうにしていた。
そういえば冷凍食品ではできないか、と気付く。でも、結構前からあると思うけど。
「チキンライスの上に半熟のオムレツ載せて、こう、切れ目入れて卵が
「うん!」
きらきらと目を輝かせて、やや体を乗り出す。子どもみたいだ。
――まぶしい。
本当にこの人年上なんだろうか、と、たまに思う。
はっきりとは知らないけど、多分一回りくらいは上のはずなのに、ものすごく純粋で、素直で。
放っておくとひたすらじっと見ていそうなので、サラダづくりをお願いする。あと、スープも。
スープは缶を開けて鍋に入れてもらって、温めるのはこっちでやる。サラダは、レタスはちぎってきゅうりは切って、缶詰のツナとコーンであえて。
「どうして、ちぎるだけなのにそっちとあんまり時間変わらないんだろ」
「慣れ」
「それだけじゃない気がするなあ。どれだけ頑張ったって、僕にはこんなにおいしそうに作れないよ」
堂々と宣言するようなことじゃないと思うけど、どこか嬉しそうで、こっちまで嬉しくなるような気持になるから否定はしないでおく。
「缶詰、
「…いくらでもあけるよ!」
一瞬、顔をしかめたのは切ったところを想像したんだろうか。
今にも抱きついてきそうなアキトさんを止めて、ラグビー型に整えたチキンライスの皿をテーブルに運ぶ。
とりあえず一枚、アキトさんの前に。もう一枚は、向かい側に。
卵三個を割り入れて、シンプルなオムレツを作る。ただ、牛乳が多めでやわらかくて焦げやすい。
それに、卵液がそのまま流れ出すよりはギリギリ固まっているくらいが好きだから、加減が難しい。
アキトさんは、食事にこだわりがないようでいて、好き嫌いは多分きっちりとある。
食べない、というほどではないんだろうけど、なるべくなら食べたくない、これよりはこっちがいい、というくらいのものが。こっちよりはこれが好き、というくらいのものが。
ただ、遠慮してるのか何なのか、言ってはくれない。
「うわあぁ…!」
ぷるぷるのオムレツをチキンライスにのせて、包丁で真っすぐに切れ目を入れる。
固まった表面がひろがり、包まれたやわらかな卵がゆっくりと流れていく。
湯気も立って、これはこれで楽しい光景だけど、無邪気に喜んでくれるアキトさんが嬉しい。
つくったものをなんだって「おいしい」と言ってくれるのは、ただのおせじなのかも知れないけど、たしかに満たされるものがある。
先に食べててと声をかけて、もう一度フライパンに油を引く。自分の分を焼かないと。