「チカ君、開けてー」
「アキトさん? …ありがとう」
とりあえず渡したカップに、湯気の向こうで笑ってくれる。
空いた手で頬に触れると、くすぐったそうに目を細めた。可愛い。
そのまま口付けそうになって、ギリギリのところでとどまる。いやだから。どうして僕はこう。
「アキトさん。やっぱり今日」
「いや。待って。ほんと待って。ごめん」
「ええと…謝られる意味がわからないんだけど」
「だって。チカ君…」
不思議そうに見つめ返してくるチカ君は、今は、平気そうに見える。
だけどチカ君は取り
今も、全部を気付けているわけじゃないだろう。
そしてきっと、チカ君でなければ僕はただ、プロだなあと感心するだけで流しただろう。
どうしてチカ君だけを特別に思うのかなんてわからない。
最低だけど、今まで雇った人たちは、スケッチに
苦情を言われたことはあって、そのことは覚えていてもそれが誰だったかは覚えてない。
興味がなかった。
今は、チカ君にとっても僕がそんな客の一人でしかなければどうしようと、恐れている。
「つらそうに見えたよ。
僕は世間知らずだけど、雑談ついでに世間への窓を開けてくれる親友はいる。多分に、情報は
だけど、きっとこれは、それこそ
ヤクザとか、裏社会とか、そういう。
チカ君は、パソコンのレンズに向けたのと同じような、怯えたような目を向けた。
「…僕が触れても、いい…?」
一度口を開いて、でも、何も発さずに閉じられた。チカ君の綺麗な顔が
カップを両手で包む。
「冷めちゃうね。立ったままだし」
先にソファーに腰を下ろして待つ。
無理しなくていいよと、言う前にカップに視線を落としたまま、チカ君が口を開いた。
「今の仕事始める前に、借金取りに言われて行ったら、AVの撮影で。結構ちゃんとほぐしてくれたし、全部は
笑い飛ばそうとして、失敗した
抱きしめたいと思ったけど、逆効果にならないか。これ以上、チカ君に
借金返済のためにこの仕事を選んだなら、そうなる前に出会えれば良かったのに、とか。最初の客になれていたなら、とか。
できるはずもないもしもを思い浮かべる。
でも。
そうやって出会っても、その頃の僕がチカ君に今と同じ感情を持てただろうか。
それぞれにこれまでの経験を
だとすれば、僕は、どうか同じように出会いたいと望んでしまう。
相手が幸せであればそれでいいというような、綺麗な想いなんてものを持てない。
チカ君に、僕の
「…だから、面白くないしありふれてるって言ったでしょ。時間取らせてごめん。ココアも、ありがとう」
少し温くなったココアをほとんど一息に飲み干して、チカ君は笑って見せた。
「どうする?」
多分、それを違った意味に取って、チカ君はほんの一瞬表情を消した。ごく一瞬で、すぐに
「もう寝よっか。アキトさん、疲れたって言ってたのに、引っ張っちゃってごめ」
「チカ君」
「…なに?」
「触れるね」
返事は待たずに片手で、立ち上がりかけたチカ君の腰に手を回す。しっかりと抱きしめると、密着した体に、チカ君のいつもよりも早い鼓動が響いた。
どのくらいそうしていたのか、お互いに顔も見えないまま、パジャマ越しでも体温が混じり合っていくのが判る。
温かい方から冷たい方へと、熱を渡して
「…アキトさん? あの。えっと、同情とか、そういうのいいから。ほんと、
「チカ君が感じたことを、他と比べる必要なんてないよ。ましだとか、よくあることだとか、厭だったりつらかったことをなかったことにしなくていい」
受け流してしまうことも、立派な処世術なのだろうと思う。
傷を小さく見積もって、見ないふりをして、そうしないと立ち上がれないこともある。
でもそれは、ずっと続けていけることじゃない。
「僕は、恋愛…性欲の対象が、女の人じゃないって知られて家を追い出されたけど、そういうことで揉めたり険悪になったりはよくある話だからって、あの時僕が感じた怒りを忘れたりはできない。そのおかげで祖母の従妹の娘って人からの遺産を受け取ることになったけど、だからってあの人たちに感謝しようなんて思わない」
「なんか…アキトさんもいろいろあったんだ」
「…あれ? そういうことを言いたかったわけじゃないんだけど…?」
不幸自慢みたいになったような気がする。いや別に不幸なんかじゃないんだけど。
そもそも、正真正銘に血縁のある両親も弟も、あんまり
チカ君が抱き返して、体重を預けてくれる。
「動画撮られたのより、その後、見せられたのが最悪だった」
ぽつりと落とされた言葉に、つい腕に力がこもった。
「…殴ってやりたい」
「え。…アキトさん、ケンカしたことある?」
「体力はあるよ?」
「知ってるけど。こんなすべすべした手で殴ったら、皮むけるんじゃないかな。と言うか、手首傷めそう。絵が描けなくなるかも」
「でも我慢できる気がしない」
「…ありがと」
凄く小さな声で、顔ごと僕の肩に
思わず頭を
チカ君の空になったカップは、床に置かれていた。
なるほどその手があったか、と思うものの、チカ君を抱きしめたままソファーの上から床にまでは手が届かない。
それでもどうにかならないかと思っていたら、多少動いていたのか、チカ君が顔を上げて視線を巡らせ、離れてしまった。
ゆっくりと、カップの中身をこぼさないように。
「…どうぞ」
「ああ…うん。……まず」
すっかり
お湯で
自分で入れたのに、一口ですっかり飲む気が
どんな顔をしたのか、チカ君が小さく笑った。
「
一度首を
「おいしかった」
「いや、まずかったよね?」
「味は頑張りましょうってところだったけど、俺のために入れてくれたのが…嬉しかった」
それは、やっぱり美味しくはなかったのでは。
そう思ったけど、ゆるりと笑うチカ君に、言葉にはしなかった。
味が二の次の時はある。それでも、折角ならおいしいものを飲んで欲しかったけど。
一口飲んだだけのココアを、一気に飲み干す。
からっぽのカップを並べて置いてチカ君に向き合うと、目を丸くしていた。
「チカ君」
「…はい」
「カップ片付けるの、明日でいいかな」
「へ? …え。ああ、うん。はい」
「歯磨きももういいよね。今日はもう、寝ようか」
「…」
いいの?と言うような、不思議そうな、あるいはどこか不安そうな、
大人の顔色を窺う子どものようで、無性に抱きしめたくなる。
チカ君は、ふっと表情を変えた。笑顔に、全てを隠してしまう。
「…ごめん。変な話して。寝よっか。明日美琴さん、何時くらいに来るかな」
気付けば、チカ君が腕の中にいた。
立ち上がりかけたところを引き寄せたから、倒れ込むように体が斜めになっている。ぎゅうと抱きしめる。
「変な話なんかじゃないし、
「…べつに」
「厭じゃなかったら、しばらくこうしてていい?」
力を抜いて、体を預けてくれたのが分かった。
顔は半ば
「アキトさんにされて厭だったことなんていっこもない」