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<チカ>

 熱が出た。多分。

 多分というのは、この家に体温計がないからだった。

 晴喜ハルキさんの家には、美羽ミウが幼かったこともあって、当然のように置かれていた。母親と暮らしていた家にもあった。

 それらを出てからは、体調が悪くてもだましだましやっていた。大きな病気にならなかったのは、運がよかったんだろう。


「…アキトさん」

「何?!」

「はりついてなくてだいじょうぶ」

「倒れたんだよ!?」


 ――大げさな。


 美琴ミコトさんとパソコンごしに通話して、いろいろといやなことを思い出して、でもアキトさんに優しくされて帳消しになったようだった次の日。

 美琴さんは高埜タカノさんの車で、まだ十分に朝と呼べる時間にやって来て、次に使う制服みたいな衣装と猫の衣装との調整をして、楽しげに、着せ替え人形で遊ぶみたいに俺にあれこれと服を着せて、夕方の最終のバスで帰って行った。  

 夜には、いつものようにアキトさんと高埜さんと、俺もちょっと混じって酒盛りをして。

 昼過ぎに帰って行った高埜さんを見送って、少しだけと服を着替えてモデル仕事をして。

 置かれたイスに軽く手をそえて立っている、という構図で、今回初めておもちゃはれず、ただ立ちっぱなしで貧血でも起こしたのか、うずくまっていたら大あわてでベッドに運ばれた。

 熱があるんじゃないかと、泣きそうな顔で言われた。たしかに、熱っぽい感じはある。ふわふわと、ぼんやりした感じ。


「やっぱりお医者さんに」

「タクシー呼ばなくていいから」


 駅前まで、バスでも千円はこえる。タクシーだったらどれだけかかるのか。

 アキトさんは気にしないかも知れないけど、俺のためだと考えるとやめてほしい。

 カゼ薬もないらしいけど、ここではたっぷりと休めるし、栄養価の高い食事もあるし、寝てればなおるんじゃないだろうか。


 ――知恵熱、みたいなものなんだろうし。


 そもそも知恵熱がどんなものなんだかよくわからないけど、考えすぎてとかそういうものなんだとして。

 イヤになるほど考えて、だから、だったらそのうちおさまるだろう。もう、結論は出たんだし。


「…ねてるから。ちょっとモデルはできないけど、絵をかいてて」


 ううん、と、アキトさんは大きく首を振った。


「描き始めたら、チカ君に何かあっても気付けない」

「いや、そんなつきっきりの看護いるようなのじゃないから。ちょっと熱出ただけだで、ねてればなおるから」

「ほんとに?」

「うん。だから」

「でも」


 まるで、命綱みたいに。アキトさんは、俺の手をにぎった。そっと、壊れ物にふれるように。

 それなのに、絶対に離さないとでも言いたげに、しっかりと。

 アキトさんの体調はなんともないはずなのに、くしゃりと顔がゆがむ。


「チカ君が元気になるまで、ここにいる」

「…いいのに」


 ――うれしい。


 けど、これに慣れたらダメだなとも、思う。

 これは、今だけの特別。あと残り二月くらいだけの、期間限定。そうでないと、こっちがもたない。

 いつ愛想をつかれるかとびくびくするなんて、捨てられることに怯えて、いい記憶さえ押しやってしまうなんて、イヤだ。


 あと、二月ほど。


 アキトさんがどういうつもりかはわからないけど、俺は、もうこれ以上契約を続けるつもりはなかった。あと少しだけこの関係に甘えて、楽しんで、終わりにする。

 ここで冬を迎えることはないんだな、と、思う。

 夏に、アキトさんと庭に寝ころがって流星群を見た。寝袋と毛布を用意して、ながめているうちに気づいたら朝になっていた。

 寒くなったら天窓から見よう、と言われたけど、次にみられそうな流星群は十二月だから、俺がその隣にいることはないんだろう。

 ぼんやりとアキトさんを見ていると、ぐいとその顔が近付けられた。


「チカ君、何か欲しいものとか、してほしいことある?」

「…水、飲みたい。ペットボトルが」

「わかった!」


 ぱっと立ち上がって、走っていってしまう。高校生くらい、いや、下手をすれば小学生くらいの身軽さだ。

 おまけに。


 ――場所、わかるのかな。


 朝食は大体用意してくれるけど、基本、すぐ見える場所にあるものしか使わない。

 缶詰や乾物にいたっては、きっと、月一くらいでしか来ないらしい高埜タカノさんの方が場所をわかっている。

 ほんとうに、生活能力がない。いや、今まで生きてこられたんだから、それは言いすぎなのかもしれないけど。

 本当は、俺があれこれと世話を焼くのもうっとうしいだけなのかもしれないし。


 ――やめよう。


 考えが悪い方へと落ちかけるのに気付いて、ストップをかける。

 まだ熱っぽいせいかもしれない。体調が悪かったりお腹がすいてたりする時に、なにか考えたってろくなことにならない。

 ぼんやりと、眠気が下りて来る。

 半分くらい眠っていて、どのくらいたったのか、ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。

 まぶたを開けようとしたけど、だるさと眠さが勝つ。


「みう…?」

「……誰を呼んでるの」

「…?」


 どうにか目をけると、ずいぶんと見ばえのいい男の人が、無表情に立っていた。

 ぼんやりとしたまま、このひとを知ってるな、と思ってようやく、アキトさんの名前が浮かんできた。


「みう、って誰?」


 どうしてアキトさんが美羽の名前を知ってるんだろう。それになんだか、こわいかおをしてる。


「はるきさんの娘で…」

「はるき?」


 まどろんだうちにノドが乾燥したのか、せきが出た。

 とたんに、アキトさんに表情が戻る。心配するように、顔を近付けて来る。


「ごめん。水、持ってきた。飲める?」


 ペットボトルを持ち上げて見せて、起き上がろうとしたら背を支えてくれた。

 のどをすべり落ちる水の冷たさが心地良くて、まだ体がほてっているのがわかる。

 もしかして、下がるどころか上がってるんだろうか、熱。

 なんだか少し、ふわふわする。


「もっと飲む?」

「…ううん」

「寝る?」

「…ん」


 抱きかかえるように、寝かせてくれた。


 ――なんだっけ。

 ――ああそっか。


「はるきさんは…今おれがいる店のてんちょーで。みうが、おれを見つけてくれて、はるきさんがひろってくれたから」

「拾う?」

「AVのさつえいのあと、つい逃げちゃって。逃げたってどうしようもないのに、おもわず。で、なんか気持ちわるくなっちゃって、どうでもよくなって、どっかのろじうらではいて、そのままぼーっとしてたら、みうが見つけてくれて。はるきさんが…はなしを聞いて、お金かしてくれたんだ。つかいみちがなくなってういた金だから、って。時間をかけて返してくれたらいいって」

「…チカ君は、店長さんを信頼してるんだね」

「…うん。はるきさんは、大切なものをまちがえないから。みうが一番だから、なにかあったらちゃんとおれを切り捨ててくれる」


 だから、晴喜さんには少し甘えられる。いきすぎたらダメだって言ってくれるだろうから。

 美羽がもう少し大きくなれば、嫌われるかもしれないとも思う。

 だからそれまでだけ。

 きっと期間限定だろうこの間だけ、ちょっとあの二人と一緒に居させてもらってる。


 ――おんなじだ。


 期間限定なのは、アキトさんとの関係もだ。変なところで繰り返してるなあ、と、ちょっとおかしくなる。

 こんなの、終わってからがさみしくなるだけなのに。


「チカ君」


 アキトさんの、やさしい声がふってくる。あたまをなでてくれる手が、きもちいい。


「すこし、休もうか?」

「…ん」


 いつもよりもやさしい声で、やさしい手つきで、とろとろとした眠気にくるまれて、まぶたがほとんど落ちて来る。

 だからこぼれ落ちたのは、ちゃんと考えた言葉ではなくて。


「あきとさん」

「なに?」

「スケッチブックのヒトってこいびと?」

「えっ?」


 アキトさんがどんな顔をしていたのか、何か答えてくれたのかもわからないまま、ふかふかとした眠りに落ちていった。

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