目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

<アキト>

 暗がりの中、すうすうと寝息を立てるチカ君の顔をながめる。

 眠っていて緊張したり警戒したりすることがないからか、随分とあどけなく見える。

 普段も、初めて見たときに未成年かと思ったくらいの幼さはあるけど、気を張っているのかそもそもしっかりしているのか、もっときりっとしている。

 隣で寝ている僕が体を起こしても、目覚める気配はない。


 チカ君は眠りが深い上に朝が弱いようで、早朝の山登りが日課の僕は、寝顔を目にすることが多い。

 はじめは抱きつぶしてしまったせいかとも思ったけど、元々のようだった。

 それにしても、人の気配がないと寝付けないと言っていたのに、この熟睡ぶりは気になる。

 ネットカフェに寝泊まりすることも多かったと聞いたけど、今まで何もなかったんだろうか。

 ああいうところはいろいろと問題も多いと、主真カズマに聞いたことがあったけど。


 思わず手が伸びて、頬に触れる。

 まさしく人肌のぬくもりと、寝息とともに規則正しく上下する体とが、しっかりとチカ君がここにいることを感じさせる。

 このまま抱きしめたくなったけど、起こしてしまいそうで自制する。


 ベッドから抜け出ようとして、雨音に気付いた。

 立ち上がってそっとカーテンをめくると、雲なのか日の出前でまだ夜なのかどんよりと黒い空の下、こまかな雨粒が打ち付けていた。

 雨量はそれほどでもなさそうだが、風が強いようで音は激しい。当たったらそれなりには痛そうだ。

 それでも、今までなら合羽かっぱ羽織はおって出かけていただろう。


 裏山の往復と山頂での自己流の型のようなあれこれは、ここに移ってからの日課だ。

 型めいたものは、習っていた合気道の道場をやめてから、ずっと。

 やや、強迫観念のきらいがある自覚はある。


 小学校に上がる前、誘拐されたことがある。

 一緒に遊んでいた主真がなんと尾行して通報してくれて、その日中に家に帰れた。

 だから、なんともなかったと言えばなんともなかったし、人によっては忘れるくらいのものだったかもしれない。

 でも僕は、あの時の無力感を忘れることはできなかった。何もできず、ただ大人に好きにあつかわれた。

 主真が機転をかせてくれなければ、僕はここに居なかったかもしれない。

 だからせめて、一矢報いるくらいの、暴れて梃子摺てこずらせるくらいの力が欲しいと思った。


「ん…ぅ…」 


 チカ君が目を覚ましたかと思わず駆け寄るけど、それ以上は寝言もなく、まだ眠っているようだった。

 そっと、隣にすべり込む。チカ君がいる布団の中はあったかい。


 チカ君をモデルにした四枚目の絵が、そろそろ描き上がる。

 契約期間はあとひと月ちょっとで、いつも通りなら、絵はもう一枚描ける。猫の衣装を使うつもりだった。


 そろりと、手を伸ばす。

 少しずつ力を込めて、しっかりと抱きしめてもチカ君は目を覚まさなかった。

 寝息も穏やかなまま、ただ、条件反射なのかもしれないけど、抱き返してくれるのが嬉しい。


 きたいなと、思った。


 チカ君を描きたい。

 他の誰かを重ねるためのモデルではなくて、チカ君自身を描きたい。スケッチ程度ではなく、しっかりと作品として。

 随分と久々な衝動だった。

 前にそんな衝動にかられてから、十年程。

 りてないのかえているのかは、今の僕の年齢があやふやでわからないけど、当時の年齢ははっきりとしている。


 二十二歳。大学四年で、卒業制作と並行して描いていた。

 あの人の凛とした姿をめ置きたいと思ったから。


 顔を合わせたのはほんの数回、受け取ったものは、目に見えないものも含めて途轍とてつもなく多い。

 多分、僕が出会ったほぼ初めての、全幅の信頼を置ける大人だった。

 とても格好良い人だった。

 描いた絵を渡したかったのに、見てほしかったのに、叶わなかった。仕舞い込んでしまったあの絵を見たのは、多分、僕と主真だけじゃないだろうか。

 今度は、そうはしたくない。


「…チカ君」


 起こさないように、小声で呼ぶ。返事なんてないと知っているのに、応えてくれないことが少し寂しい。

 もうすっかり、チカ君が返事をくれることに慣れてしまった。それでもまだ僕は、チカ君の本当の名前も知らない。

 このぬくもりを、手放したくない。お金で縛り付けるような関係ではなく。

 そう思うのに言葉にできないのは、断られた時が怖いからだ。

 もし――と考えるだけで、指先が冷えるのが判る。まるで、チカ君が与えてくれた熱を奪われたと錯覚するように。

 だから、まだこの関係が終わるまではと、先延ばしにしてしまう。

 延長するつもりはないけど、チカ君がどう考えているのか、土壇場どたんばで僕が逃げてしまってもう一度、なんてことにならないか、わからない。


「ずっと…そばにいてください」


 チカ君が起きているときに言わないと意味のない言葉が、こぼれ落ちた。

 ずっとずっと、傍にいてほしい。一緒にいるのが当たり前で、いないのが例外のような、そんな関係でいたい。

 どこからどうこんな気持ちが育ってしまったのか、よくわからなかった。からないけど、いやではない。むしろ、心地いい。


 ふと、気付く。

 世の中の恋人たちも、こんな感じなんだろうか。だとすれば。タカトは、僕にこれを求めていたんだろうか。


『スケッチブックのヒトってこいびと?』 


『アキトって、オレに興味ないよね』


 チカ君の熱に浮かされた言葉と、タカトの淡々とした言葉を思い出す。

 多分、チカ君の言った「スケッチブックの人」はタカトのことだろう。


 この家に移る前、タカトをモデルに絵を描いていた頃から使い始めたスケッチブックは、捨てるのも面倒で保管室にめていっていた。

 たまに、チカ君がそれを見ていたのも知っている。

 確かに、タカトはあの中では特別だ。数が多い、という意味で。


 そもそも、今みたいに絵を売り始めたのはタカトだった。


 なんとなく知り合って、部屋に居ついて、モデルになってあげるよと絵の依頼とセットで言ってきて。

 完全オーダーメイドで、基本的には購入者以外には非公開。

 絵のメインが既存の漫画やアニメや実在の人物だったりするための条件だったけど、それは独占欲をくすぐるらしく、気付けばそこそこ途切れることもなく依頼が来るようになっていた。

 エロは強い、と言い切って、性具を使い始めたのもタカトからだった。


 タカトが僕をどう思ってたのかはわからない。

 考えようもしなかった、というのが本当のところだ。

 恋人のつもりでいるのかなと思ったことはあったけど、どうでもよかった。


「あー…」


 今になって、改めて考えると、とことんろくでもない。人でなしとののしられても仕方がない、気がする。

 今の生活の基礎を作り上げて、多分好意も持ってくれていて、やることもやっていて、それなのに何の興味も執着も持たない僕を、タカトはどう思っていたんだろう。


 ある日、タカトは何も言わず、持ち物すら徹底的に残さずいなくなっていた。いや、もしかしたら何かしらの前振りはあったのかもしれない。


 僕が全く気付かなかっただけで。


 口座から半分近い金は引き出されたけど、それきりで通帳とカードは郵送されて返って来た。

 主真は調べて取り返そうかと言ってくれたけど、山分けかむしろタカトの取り分の方が多いくらいじゃないかと思ったから断った。

 そうして、そのまま今のやり方は残って、こうやって生きていけている。

 タカトが欲しがったのは、チカ君に抱いたような感情だったんだろうか。金蔓かねづると思っていたなら、去ることはなかっただろう。


「あーあ…」


 悪いことをした、と思う。思うけど、ただそれだけで、チカ君に向く感情のひとかけらも動かない。


 全く起きる気配のないチカ君のぬくもりを感じながら、僕も目をつぶる。

 雨音とチカ君の寝息に耳を澄ましながら、チカ君に何をどう伝えればいいんだろうと考える。

 僕に今まで恋人なんていたことはなくて、だけどタカトとのことをそのまま話したら嫌われるんじゃないだろうか。

 ずっと傍にいてほしいとさえ伝えられないのに。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?