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<チカ>

 耳としっぽの主張がすごかった猫の衣装が必要なくなると、アキトさんは保管部屋にこもることが増えた。

 モデルとしての俺はもう必要なくて、アキトさん一人で完成まで進められる。

 だけど、今まではこの部屋で描いていて、描いているところも少しずつ完成していく絵もいくらでもながめていられたのに、あの部屋にこもって、入らないでほしいと言われた。

 スケッチブックや本を見たければ持ってくるから、とも。


 ――飽きられちゃったかなあ。


 残り半月ちょっと。さすがに、四か月以上もずっと顔突き合わせてたらそうもなるか。

 その割には夜は変わらないペースだけど、そこは、単に性欲が強いだけなんだろう。

 俺がいなくなっても、また別にモデル兼男娼を雇って、ほぼ依頼主しか見られないとびきりすごい絵を描いていくはずだ。


 深く息を吸って、吐いて、ソファーにしずみ込んでいた体を持ち上げる。

 どうせハウスクリーニングが入るのに、と思いながらもちょこちょこと済ませた掃除はそこそこ一巡して、食料品の整理も終わって、ちょっと早い気もするけど、ここでお世話になった人たちに挨拶をすませておこうと家を出る。

 まだ時間はあるけど、契約は残ってるけど好きにしていい、なんて放り出されることだってないわけじゃないだろうし、その時になって誰にもお礼も言わなかったな、なんて後悔するのはイヤだ。

 パン屋の夫妻に、無人販売を利用しているおじさんやおばさんたち。

 買い物がてら、近々離れることを伝えて、これまでのお礼を言おう。


 ――真人間みたい。


 ふっと笑いがこぼれ落ちる。高校までを過ごした場所は、何もかも投げ出して後にしたのに。


 ――それで、いいと思ったのに。


 いつの間にか見慣れた道を歩いていると、風や景色が、すっかりと秋になっているのに気付く。

 山のすぐそばというのもあるだろうけど、変化に気付けるくらいに、ここでの生活を楽しんでたんだなとも気付かされる。

 余裕がないと、ささやかな変化に気付くことはない。


「あら、こんにちわぁ。かぼちゃ置いたから、また持って行ってねぇ」

「こんにちは。楽しみです」


 行き会った、無人売店に野菜を置いている顔見知りとかぼちゃ料理の話をして、別れてから、あと半月ほどでここを離れると言いそこねたことに気付いてため息が落ちた。

 野菜も、そろそろ考えて買わないと、置いていったら腐らせるか干乾びるかだろう。

 かといって、持って行こうにもこの先が全然決まっていないから、またしばらくマンガ喫茶でも渡り歩くような生活なら、これも無駄にしてしまう。

 作り置きを置いていこうか、とも考えたけど、食べることさえ二の次にするようなアキトさんが、ちゃんと食べ切ってくれる保証はない。

 そもそも知るすべがないにしても、冷蔵庫でひっそりと食べられなくなる総菜を考えると…腹が立つ。


「いらっしゃいませー。…どうかした?」

「え?」

「なんだか複雑そうな顔をしてるけど」


 ずい分と大きくなったおなかを抱えながら、レジカウンターで椅子に座っていた佳奈美カナミさんが、わざわざ立ち上がって顔を覗き込んでくる。

 その気安さに、ほっとするのとさみしさとを感じた。


 ――こうやって話すのも、あと少しか。


「お客さんいないけどこの店大丈夫なのかなって心配になって」

「ちょっと! 棚を見なさい、棚を。今日もあとちょっとで完売閉店の見通しです!」

「あ。クロワッサン売り切れ」

「サンドウィッチにしたやつなら残ってるわよ」

「うーん、気分じゃないなあ。アーモンドメロンパンください」

「どうしてクロワッサンの代わりがメロンパンになるの」


 他に人がいないのをいいことに、しゃべりながらパンを選ぶ。

 本当に棚はガラガラで、売り残り前提の大量生産をしていないとはいえ、見事だ。

 今日はもうハジメさんは街に向かったと聞いて、どうしようかと思ったけど後回しにすると言わずに終わるような気もする。

 いくつか選んだパンをレジに持って行き、短く、息を吸った。


「俺、ここのパン好きだよ」

「ありがとう。どうしたの、突然」

「あと半月くらいでバイトが終わるから、きっともう買いに来れなくて」

「え。…え? バイト? 弟子じゃなくて? ずっといるんじゃないの?」


 パンをビニールに入れる手を止めて、大きく見開いた目で見つめてくる。あまりにまっすぐで、少し、気圧けおされる。つい、目をそらしてしまった。

 どこか言い訳じみた言い方になりそうなことにも気づく。


「家政婦みたいな感じのバイト。そろそろ契約期間も終わり」

「延長できないの?」

「…できるかもしれないけど、だらだら続けても仕方ないしさ」

「そっか」


 心底残念そうにつぶやいて、佳奈美さんはごく自然に、ふくらんだおなかに手を当てた。


「この子にも会ってほしかったなあ」

「来月だっけ」

「そう。年末年始にかぶると特別料金取られるから、ちょっとそこはひやひやしてる。でもまあ、初産は早まることが多いって言うし…半月か。間に合わないか、さすがに」

「そんなので急がれても」


 多少ただの客よりは親しいとは思うけど、友人というにはまだもう少し距離があるような付き合いだと思っていた。

 だけど、子どもっぽくむくれた顔を見ていると、この人はもう少し近いと思っていてくれていたのだろうか。

 また、うれしいような、さみしいような気分になる。

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