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第三章

好きな人の名前を

 先輩は卒業し、私は進級した。


 環境が変われば、もしかしたら私たちの関係性も変化があるのかもしれないとの不安もあった。具体的には、会う時間が減るとかーー最近はよく喋ってくれるようになったけど、元々口数の少ない先輩とのコミュニケーション不足はまぁまぁな問題だと思うから。


 結論から言うと、私の不安は杞憂に終わっているーー今のところは。

 先輩は、ほぼ在宅ワークで週に一度出社するスタイルらしい。なので私が学校帰りに部屋を訪ねれば会えるからだ。

 今までは週に一度だった逢瀬は、週に二度になり三度になり……

 いや、私だって最初は遠慮してたんだよ、いくら在宅ワークでもお仕事で疲れているだろうと思って先輩の部屋に寄らずに帰ったりしてたのに、そんな日は先輩からのメッセージが届くのだ。

「今日は来ないの?」

「お腹空いちゃった」

 などなど。

 そして私はいそいそと先輩の部屋へと通うのだ。

 つまりそう、らぶらぶなのです。


「やっぱり天寧のご飯、美味しい」

「先輩は、いつも通り綺麗です」

 向かい合って微笑み合いご飯を食べる事が日常になりつつあって、多幸感にぼんやりしてしまう。

 ふと見ると、先輩が見つめてる。

「もう卒業したんだから、先輩じゃなくて名前呼んでよ」

「ふぇ? せ、先輩は先輩ですから」

「えぇぇ、つまんないな」

「えっと、考えときます」

 名前を呼ぶ? 考えただけで恥ずかしいーーというか、恐れ多いよ。

 でも。


 先輩がお皿を洗って、私が拭く。

 いつものルーティン、最後のお皿を拭き終わる。

 先輩は軽くシンクを洗っている。

「か、栞菜……さん」

 先輩の動きが止まって、こちらをゆっくりと向いた。

 心なしか顔が赤い、それ以上に私は真っ赤だと思うけど。

「やばっ」

 小さく呟いた先輩は手を拭いてから抱きしめてくれた。

「嬉しい! けど照れるね、それにーー」

「なんですか?」

「いや、なんでもない。やっぱりまだ先輩呼びでいいかも」

「へ?」

 先輩が言ったのに、なんで?

「呼ばれ慣れてなくて変な感じっていうか、そういえば友達からも苗字で呼ばれる方が圧倒的に多いからさ」

 そうなのか、確かに私も先輩と呼ぶ方が慣れているけど、いつかはその特別な呼び方をしたいなぁ、とも思うんだけどな。





「まだ梅雨は明けないのかなぁ」

 先輩の部屋の窓は大きくて、外がよく見える。今日はずっとシトシトと雨が降っていた。

「天寧は雨が嫌い?」

「そういう訳じゃないけど、ほら、もうすぐ七夕だから」

「だから?」

「一年に一度の逢瀬は晴れた方が嬉しいかなって、私も星空が見たいし」

 先輩はクスクスと笑いだした。私、変なこと言ったかな。

「天寧は優しいね」

 え、何が?

「彦星と織姫のデートの心配するなんて」

「あ、いや、その」

 本音はそこじゃないんだけどなっ。

「どうした?」

 じっと見つめてしまっていたらしく、さっきまで笑っていた先輩が真顔で近づいてきた。

「先輩と一緒に星空を眺めたくて」

 彦星と織姫のことを考えていたわけじゃない、ただの私の願望を漏らす。

「あー」

 先輩が目を伏せた。

 なんだぁって思われた? 優しくなんてないって幻滅されちゃった? やっぱり言わなきゃ良かった。

「ごめん」

「え?」

 なんで先輩が謝るの?

「その日、出社しなきゃいけなくて、次の日も特別な会議とかで土曜日なのに出社命令出てるの」

「あ、そうなんですね」

 お仕事なら仕方ないよね。

「せっかくの七夕なのに」

「いえ、大丈夫です。私こそ変なこと言ってごめんなさい。その日は向こうに泊まるんですか?」

「うん、そのつもり。電話するからね、お土産も買ってくるし、いい子にしてて」

「はい」

 寂しいけど、思いきり子供扱いされてる気がするけど、頭を撫でられ髪をわしゃわしゃしてくるから嬉しくてーーあれ、もしかしてペット扱い? でもいいや、先輩が楽しそうだから。




 七夕の夜、1人で見上げる夜空はどんよりとした曇り空だった。星は一つも見えないや。

 私の心も同じようにどんよりとしている。隣に先輩がいないからなのは明白で、先輩からの電話を今か今かと待っていた。


「そっちの天気はどう?」

 声を聞いた途端に気持ちは晴れるんだから、現金なものだ。

「曇ってます」

「あぁ、こっちもだよ」

「やっぱり星は見られないかぁ」

 一緒にじゃなくても、声を聞きながら天の川が見えたらロマンティックなのにな、なんて考えていた。

「まぁ、その方がいいんじゃないの?」

「え?」

 何がいいんだろう。

「だって、一年に一度のデートなんでしょ? 二人っきりで楽しみたいんじゃないかなぁ、お空のお二人さん」

「え、あっ、そういう……」

 先輩の考え方が素敵過ぎて、感動してしまった。

「先輩の、そういうところーー」

 好きですって言おうとしたら、電話の向こうが騒がしくなっていた。

 ガラガラと音がしたと思ったら。

「栞菜、ベランダで何してるの? お風呂お先ーー」

 という女の人の声が聞こえた。

 えっ、誰?

「あ、ありがとーーごめん天寧、また後で」

 そう言って通話は切れて、その日再びかかってくることはなかった。


 誰なんだろう、お友達? 職場の人?

 そういえばどこに泊まるかって聞いていなかった。

 私はホテルにでも宿泊するんだろうなと勝手に想像していただけだ。それは、先輩が誰かの家に泊まるというイメージがなかったから。

 だって、人と深く付き合うのは苦手だと言っていたし。

 え、待って! ということは、その人はよほど仲の良い人ってこと? 私より?

 私の心は、この夜空よりももっと深い暗闇の中へ堕ちていった。





「あれ佐藤さん、なんか元気ないね」

 翌日、バイト先の店長に声をかけられた。

「え、そんなことは……」

 バレているみたいで、優しい目で見つめられた。

「その顔は恋の悩みかなぁ」

「あはは」

 笑って誤魔化しながらバイトの準備を始めた。

 小さなカフェだけど、料理の評判が良いため開店すればそこそこ忙しくなるので、無駄話も出来なくなる。

 体を動かしている方が何も考えなくて済むから、今の私にはちょうどいい。

「店長、今日私、夜も入っていいですか?」

「そりゃあ、こっちは助かるけどいいの?」

「はい、お願いします」

 バイトだと言えば先輩が帰ってきても会わなくて済む。

 今は会うのが怖い、でもきっと会いたくなってしまうので、無理矢理会えない状況を作っておこうと思ったのだ。

 先輩には、どうしてもと頼まれて、やむなくバイトに行く事になったとメッセージをしておいた。申し訳ないが店長には悪者になってもらおう。


 帰宅後、恐る恐るスマホを確認する。

「バイトおつかれさま、明日は会える?」

 と、先輩からのメッセージがあった。

「先輩も休日出勤おつかれさまでした。私も今日はさすがに疲れたので、明日は家でのんびりします」

 私が先輩のお誘いを断るなんて滅多にないーーいや、初めてかもしれない。

 それなのに……

「了解」

 あっさりした返事だった。



 その朝は、あまり良い寝起きじゃなかった。

 なんだか嫌な夢を見ていた気がするーー覚えてないけど。

 時間を確認しようとスマホを見ると、新着メッセージが入っていた。



「いらっしゃい」

 笑顔の先輩に出迎えられた。

「来ちゃいました」

「来ると思ってたよ、早く食べたいでしょ、あれ」

「うぅ……はい」



『お土産あるから、気が向いたら来て』

 夜中に送られて来たらしいメッセージは、お土産の写真付きだった。

 定番のお土産だけど、私の好きなキャラクターとコラボした商品だから、これに釣られて私が会いに行くとでも思ってるんだろうな。

 そして私は、お土産目当てという体で会いに行ってしまうんだろうな。

 だって、会いたいんだもん。




「うわー」

 先輩のお土産は、写真で見るよりかなり可愛いくて。

「食べないの?」

「可愛い過ぎて」

 食べてしまうには気が引ける。

「なら、私が」

「あっ」

 先輩にひょいっと取られてしまった。

「はい、あーん」

 反射で口を開けてしまい、スポンジケーキが入ってきた。

 咀嚼すると甘いクリームとバナナの味が口内に広がる。

「おいひぃ」

 そう言うと、先輩は目を細めて笑う。

 ずっと見つめてくれている先輩を見ていたら胸が締め付けられた。

「うぅっ」

「え、そんな泣くほど美味しいの?」

 違う、そんなんじゃない。

「先輩が……好き」

「え、うん、ありがと」

「先輩……」

「どうした、何かあった?」

 よっぽど悲壮感が漂っていたのか、先輩が真顔で心配している。

「先輩、一昨日の夜はどこにいたの?」

「ん?」

「栞菜って呼ばれてた」

「はい?」

「誰と一緒にいたの?」

「え、お姉ちゃんだけど」

「お、ねえ……さん?」

「うん、言ってなかったっけ」

 知らない、お姉さんがいることすらも。

「なぁに、私が浮気でもしてたと思ったの?」

「いえ、そこまでは思ってないけど」

 なんだお姉さんか、それなら名前で呼ぶのも納得だ。


「もしもし」

 気が抜けてぼんやりしていたら、いつの間にか先輩が誰かに電話していた。

「うん、彼女と話してくれない? うんそう、実の姉だって証明して欲しいのーー実はそうなのーーうん、わかった」

 え?

 先輩がこちらを向いた。

「天寧、お姉ちゃんと話してくれる? 顔が見たいって言うからビデオ通話でいい?」

「へ?」

「はい」

 返事も待たずにスマホを握らされ、画面には綺麗な女の人が映っていて。

「きゃー可愛いねぇ、ごめんね、栞菜って面倒くさい性格でしょ? 根はいい子なんだけどねぇ。あ、貴女のこと大好きなのは間違いないからね、いっぱい惚気聞かされてーー」

「はい、もう終了!」

 私は一言も言えぬまま、先輩にスマホをもぎ取られ、強制終了された。

「うるさいお姉ちゃんでごめん」

「いえ、私の方こそ疑ってごめんなさい」

 私の事をお姉さんに話してくれていたなんてーーそしてそれを受け入れてくれるお姉さんもーー嬉しい。

「私はちょっと嬉しかったよ」

「え?」

「妬いてくれたんでしょ?」

「ああ……」

 恥ずかしい。

「それに、一瞬敬語じゃなくなったじゃない? 距離が縮まった気がしてさ」

「あ、スミマセン」

「嬉しいって言ってるのに! 敬語じゃなくてもいいし、名前で呼んでもいいんだよ」

 先輩、優しい目をしているな。

 いいのかな?

「じゃあ、栞菜先輩って呼んでもいい?」

「ん……いいよ」

 いつかは、先輩が取れてちゃんと呼べるようになりたいーー好きな人の名前を。



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