「春見、本当に今日は帰ってしまうのかい?」
離れを出る間際も、先輩はそう尋ねてきた。部屋を出る時とその前もだから、これで三度目だ。その度に嗣にぃが微妙な顔をするものだから、可笑しいったらない。
俺は先輩に向き直り、頷く。
「今日は帰ります。先輩・・・」
俺は残念そうな顔で見てくる先輩へと頭を下げた。
「俺、先輩が居てくれて本当に良かったです。先輩が居なかったら、どうなってたか分からないし。ありがとうございます・・・必ず、お礼をさせてくださいね?」
「何もしていないよ、俺は。お礼か・・・ああ、そうだ。今度一緒に出かけよう。歴史巡りのデートなんてどうだい?」
わざわざ『デート』と言い回しを帰るあたり、嗣にぃへの控制なのだろう。俺を心配してくれてるんだなぁ、と思うと嬉しかった。じゃあそれで、と頷くと先輩は微笑んで嗣にぃは苦虫を噛み潰したような表情になる。それでも、
「谷くん、今日はありがとうございました。随分と助けて貰い感謝しています」
と、ちゃんと姿勢を正して頭を下げる辺り、社会人だな、と感心する。しかし先輩は、俺を優しい手つきで引き寄せて、ふんわりと俺の身体に手を回し、
「俺は春見を助けただけで、桐月さんは関係ないのでお気になさらず。桐月さん、お忘れなく。谷でも春見の面倒を見るくらい容易いですよ?大事にしないなら、谷の全力を持って春見を奪いますので」
なんて言った。俺が先輩を見上げると、悪戯をする時の子供のような顔だった。嗣にぃを揶揄って楽しんでいるらしい。俺にはとても美しい笑みを浮かべつつ、春見は俺のこと好きだものね?と聞いてくるので頬が熱くなるのを感じつつ、好きですね・・・、と思わず答えてしまい、思わず口をおさえる。・・・いやぁ、美人なんだから仕方ないと思う。嗣にぃの顔が、ゆうくん?!と叫んでいるようだったが目を逸らした。
嗣にぃは大きく溜息をついた後、俺の手を引っ張り先輩から引き離す。そうして俺の肩を抱いた。
「私の全力を持って大事にしますので、谷くんの出番はないと思いますけどね」
「おや?そうですか?・・・だ、そうだよ春見。何か不満がある時は俺のところにおいで」
わかったね?と首を傾げた先輩に、俺は頷いた。くしゃ、と先輩が俺の頭を撫でる。
「春見は食事をしていないので、何か食べさせて下さいね」
嗣にぃはゆっくりと頷き、もう一度頭を下げた。俺もそれに倣って、頭を下げる。そうやって、俺たちは先輩の元を後にした。
本当に、先輩が居て良かった・・・。ところで帰り際の車の中で、嗣にぃが、
「本当に先輩なんだよね?!あれ、先輩なんだよね?!」
と小さく叫ぶので、俺は思わず笑ってしまった。嗣にぃの様子が面白かったので、玉砕覚悟で落とした恋人さん一筋、という情報は黙っておく。そのうち教えてあげよう。
※
帰る途中に嗣にぃお勧めの豆腐料理の店に寄って食事をした。家でも良かったのだが、ちょっとしたお詫びらしいので遠慮なくご馳走になる。普段は副菜程度でしか認識してなかった豆腐がああも美味しいとは思わなかった。結構、食べた気がする。食事をした後は、マンションへと帰る。
玄関を一歩入ると、たった数時間居なかっただけなのに、なんだか感慨深い。扉が閉まったのを確認してから、俺は嗣にぃに前から抱きついた。
セックスの時以外で俺がこういうことをするのは、今までだと稀だったので、嗣にぃはやや驚きながらも俺を抱き返した。
「・・・また、帰れて・・・嬉しい、よ・・・」
色々と伝えたいはずが、照れ臭くて、言えたのはそれくらいだった。中坊かよ、俺は。
「僕もだよ。ゆうくんがこうして一緒に帰ってくれて・・・とても嬉しいよ」
そう言った嗣にぃの声は蕩けるように甘かった。気恥ずかしさはあったけれど、俺は嗣にぃを見上げて、背伸びをし、その唇に口付ける。
「・・・・・・嗣にぃ、好き・・・・・・」
小さな声だったが、周りが静かなのできっと聞こえたと思う。何度か啄むようにキスをした後、嗣にぃの唇を舐めると嗣にぃが俺の背中を抱く手に力を込める。
「・・・ゆうくん、僕もだよ」
俺の舌を嗣にぃの唇が喰んで、唇同士が重なり合う。舌が絡まると、甘い刺激が脳内に広がって、息が漏れた。
「あ・・・ふ・・・っ・・・」
今までだって嗣にぃとのキスは気持ちよかった。キスが長いと俺はいつも立てなくなるくらいには。でも今日は、それの何倍も気持ちいい気がする。絡ませた舌を吸われて、背中が震える。ああ、そうだ・・・嗣にぃが帰ってきてから、昨日だってキスはしてない。久々なんだ、これ。
「つ、ぐに・・・んぅ、・・・っ」
何度も角度を変えながら、キスをする。どちらのかわからない唾液を飲み込みながら、俺からも舌を絡めて嗣にぃの舌に自分のそれを擦り付けた。久々のキスで、腰がゆらめく。これ、まずいかもしれない・・・。
「あ、ふ・・・・・・」
俺の舌を優しく吸ってから、嗣にぃの唇が離れた。俺は息を浅く吸いながら、その胸に額を擦り付ける。なんだか頭がふわふわする。そして、下半身が・・・うん、なんというか、こう、ね・・・こう・・・。
「ゆうくん・・・」
嗣にぃは俺の背中を緩やかに撫でながら、髪に何度もキスをしてくる。
少しだけ視線をあげて、俺は嗣にぃを見ていた。
てかね?今までなら、目の前の人の方が手が早いはずなんだけどなぁ・・・おかしい。
昨日の今日だから遠慮しているのかな?俺は体調が良かったわけでもないし。
しかし、だ。睡眠をとって食事を摂ったら、若い(強調)俺は回復しちゃうわけで。フワフワからモンモンになるわけで・・・。ああ、でも嗣にぃも出張帰りからの今日で怒涛と言えば怒涛だったかもしれない。ええ、でもいつも元気だしな・・・。どうなんだろうか?
「ゆうくん?どうしたの?」
どうやら俺は考えている間も、嗣にぃをじっと見ていたらしい。視線があって、嗣にぃが首を傾げた。
どうしたもこうしたも・・・え、これって言っていいやつだろうか?まあ、もう嫌われてーとかは考えなくてもいいかもしれないけれど。『元気すぎない?』とか呆れられたりしないか?・・・いや、今までのことを考えると嗣にぃの方が遥かにアレだけどね?!パンスト破ったりさ、制服着せたり、この前はラブホであれだし。
「・・・あ、あの・・・ええと、ね・・・ええと・・・」
「うん?」
「その、あの、ええっと・・・あの、ですね・・・」
「うん、どうしたの?」
言い淀む俺を嗣にぃは不思議そうに見ている。言わせる的なアレじゃないぞ、これは・・・!純粋に不思議そうだぞ・・・?!おかしいな?!エロ大王のくせにな?!
俺は嗣にぃの視線から隠れるように、もう一度、嗣にぃの胸に額をつける。
ひーーーーっ、流石に無理!視線合わせては無理!
頬が熱くなるのを感じつつ、唾を飲み込んだ。そして、
「つ、嗣にぃが大丈夫、なら・・・」
「うん」
「その、し、したいなって・・・・・・」
「えっ」
なんとか告げたものの、嗣にぃの言葉を最後に沈黙が流れた。
え、ちょっと?!何が起こってます?!?!?!ええ?!?
しばらく待っても嗣にぃはうんともすんとも言わないし、動かない。俺の背を撫でていた手も止まってる。
ちょーーーーー?!これどう言う状況?!呆れられてたりするのか?!流石に昨日の今日でアレだっただろうか・・・。しかし、下を向いていてもどうにもならない。俺は意を決して顔を上げる、とーー。
「・・・え、嗣にぃ・・・?」
嗣にぃは顔を真っ赤にして口元を押さえている。
え、どしたん、この人・・・。え?え?え?
俺が知っている嗣にぃはーー桐月久嗣という男は、いつもどんな時も余裕な態度を崩さない。ここ最近はたまに知らない面を見ることもあったけれど、こんな、顔を真っ赤にする嗣にぃを見たのは初めてだ。昔から考えても、一度もない。
「いや、うーん・・・なんか、照れてしまって・・・ああ、もう格好悪いなぁ、本当に・・・」
今度は嗣にぃが俺から視線をずらして溜息を吐いた。
格好悪い?いやいやいや、そんなことない!これは、そう。
「可愛い・・・?」
俺が呟くと、嗣にぃが信じられないような顔をして、はぁ?!、と呟き俺にまた視線を戻した。
未だに顔を赤くしたままで、あのねぇ、と前置き、
「28のおじさん捕まえて何を言ってるんだか・・・可愛いって言うのはゆうくんみたいなことを・・・」
「え、でも、今の嗣にぃって可愛いよ?」
俺が思ったままを述べると、嗣にぃの顔がますますと赤くなる。ちょっと待って、と自分の顔を口元にあった手で覆った。
「・・・・・・奥さん、もう勘弁してくれる?」
情けない声で呟いた。それは素のままの嗣にぃだ。
はぁ、と大きな溜息を吐くが、手で顔を隠したままなのは変わらない。俺は顔を隠す手の袖を引っ張る。すると、少しだけ手が降りて嗣にぃと目があった。
今まで知れなかった嗣にぃの素顔を知れたことが、俺は凄く嬉しくて、その手の甲にキスをする。
「俺、どんな嗣にぃでも大好きだよ?だから、いろんな嗣にぃ、知りたい・・・」
もう一度、手の甲にキスをする。すると嗣にぃは目を瞠ってから少しして、苦笑を漏らす。顔から手を外して、俺を強く抱きしめた。
「これは、まずい・・・奥さんが男前だ」
「なんだ、それ。俺は元から男だし」
かっこいいですし、と付け加えたら、また俺を見て笑う。
なんだよ、もう。どの嗣にぃも好きだって言ってんのにさぁ。俺が口を尖らせていると、ふう、と嗣にぃはゆっくりと息を吐いてから、首を傾げた。
「それで?・・・奥さんは、僕と何をしたいの?」
微笑みながら、俺の顔を覗き込む。いつもの、嗣にぃだ。さっきの嗣にぃ可愛かったのにな、と思っていたのも束の間で、嗣にぃが顔を移動させて、俺の耳元に息を吹き込むものだから、今度は俺が赤くなる番だった。
ここで聞くのかよ・・・!くそ・・・
「・・・うっ・・・いや、その・・・・・・ひぁっ」
ぺろ、と耳を舐められて声が思わず漏れる。あああああ、もおおおおおお!
「教えてくれないと、わからないよ?」
「う、嘘だぁ・・・っ・・・嗣にぃ、わかってるく、せに、・・・あ、ぅ」
俺がそう訴えるも、嗣にぃが耳朶を甘噛みしてきて、声が崩れてしまう。
言ってくれないとわからないよ、と極々近くで甘く囁かれた。
そういうのにも易々と反応してしまうのが、慣らされきった俺であって・・・。結局、こうなるんかい・・・!
唇を一度噛み、一つ呼気を落としてから、嗣にぃの首に手を回した。
「・・・嗣にぃ、したい・・・」
小さく呟く。ふふ、と耳元で笑い声が漏れた。
「いいよ。まずは・・・シャワーを浴びようか」
嗣にぃは、そう言った途端に俺を抱き上げる。勿論、横抱きーーお姫様抱っこというやつだ。てか、シャワー?!え、それは・・・。
「僕が昨日のお詫びにくまなく洗ってあげるからね?外も、中も」
俺の頬へとキスをしながら、にっこりと嗣にぃは、嬉しそうに微笑んだ。
あーーーーーーーーーー洗浄コースーーーーーーーーーーー!!!!!
俺は心の中で、叫び声を・・・幸せな叫び声を上げたのだった。