「春見ゆうくん、ちょっとええか?」
嗣にぃと別れて自販機に並んでいる途中、不意にそう声をかけられた。
振り返ると、そこには人の良さげな笑顔を浮かべた男がいた。
嗣にぃと一緒かそれより少し低いぐらいかの背丈で、ヨレッとしたアロハシャツにショートパンツだ。やや長めの茶色がかった髪を、後ろで纏めていて、タレ目がちな目が俺を頭からつま先まで見ていた。それはまるで品定めをするような視線で、あまり気分が良いものではない。
誰だ・・・こいつ。見知った顔ではない人物に、俺は俺で不審者を見るような目だったのだろう。
「誰、ですか・・・?」
「まあまあ。通りすがりのおにぃさん、ちゅーことで。そないにビビらんでもなーんもせぇへんよ?ちょーっと話をしたいだけや。ここだと後ろの人らに邪魔になるから、あっちに行こか?」
ヘラっと男は笑った。男が指差したのは、近場の街路樹の下だった。道路に面した場所で、人の目を凌ぐような場所でもなんでもない。むしろ往来で、おかしなことをされることはなさそうだ。気乗りはしなかったが、いざこざを起こすのも気が引けて、はぁ・・・、と答えながら列を抜けた。
「すまんなぁ。すぐすむさかい」
どう見ても、その男の顔に見覚えはない。大学の関係者かとも考えたが、そもそも俺はあまり交友関係が広い方でもないので、今いる友人や知り合いは顔を覚えている。それに、男は中年と言うほどではないが、大学生には見えなかったーーまあ、大学には様々な年齢がいるので、一概に違うとも言えないがーー。
街路樹の下まで行くと男は、またヘラッと笑い、写真と思しきものを差し出してきた。
それには、女装した俺が写っていた。我ながらあさだな、と思う。
「これ、君のおねぇさんやろ?」
「はぁ、まあ・・・そうですね・・・」
「じゃあ、こっちは?」
次に見せられたのは俺の写真だ。
何を聞きたいのか、よくわからない。俺は、
「どうですかね・・・俺ら、よく似てるんで」
当たり障りのない返事をして首を傾げる。
「はー、なかなかちゃんとしとるやん。ほな、これは?」
次に見せられたのは、嗣にぃが俺にキスしている写真だ。軽く息を呑む。
落ち着け、あさと俺はそっくりで、ちゃんと見分けがつくのは嗣にぃだけだ。
俺は男を見上げて、頭を掻いた。
「まあ、姉たちは新婚なんで・・・あの、何ですか?一体・・・」
「いやぁ、手強いなぁ。ほな、これはどうやろな?」
男が写真を捲ると、また俺であろう写真だ。
「これは君やろ?」
「さぁ・・・」
「いやいや、これは絶対に君やで?写真の周り、よぉく見てみぃ?」
男はその写真の周囲を指差した。
指の下にある風景は、見慣れた物だ。
「・・・大学・・・?」
「ピンポンピンボーン!次はこれなぁ」
次の写真は、姫先輩と俺が話している写真だった。
それもキャンパス内だった。勝手に知らない誰かに、撮られていたという事実が気持ち悪い。
「・・・・・・・・・」
「なんや、だんまりかぃなぁ。これは君やんな?おねぇさんは大学生やないもんなぁ。今見せた写真な、同じ日の時系列やねん。桐月さんとのが朝な?ほんで大学のが昼で、谷んとこのが夕方前やな」
3枚をそれぞれ見えるようにずらして俺へと見せた。
姫先輩も調べている・・・そして、同じ格好で同じ日の時系列ーーつま、り。
「誤魔化しはきかへん、ちゅうことやな?」
にっこりと、男が笑う。
俺は努めて平静を保てるように、ゆっくりと息を吐いた。
「・・・・・・何が、目的ですか?」
「いやぁ?随分なスキャンダルやなぁ、と思わへん?桐月さんて新婚やのに、嫁だけで飽き足らず弟にも手を出してっちゅーことやろ?」
「・・・・・・・・・」
金か、身柄か、それとも他の何かか。
不幸中の幸いと言うべきか、写真の中にいるあさが俺とはわかっていないらしい。だが、写真の出来事はスキャンダルには違いないだろう。
恐らくこれが表に出れば、面白おかしく世間は取り上げる。そして個人的なことであっても会社経営に打撃を与えることなんてザラだ。
「今の時代って便利よなぁ。なぁんでもSNSに流せば一発や。いくら桐月でも、なかったです、にはできへんやん?」
男が言うことは尤もなことで、一昔前ならば大して騒がれず、それこそ桐月の力で隠蔽出来たのだろうが、今の時代はメディアという力は企業だけのものではなく、個人も十分に利用できる手段となっている。
ぐ、と掌を握り込む。
「・・・・・・何が、目的ですか?」
俺がもう一度聞くと、男はやはり笑った。
「あんたら兄弟が出ていけば、今回の話はなーんもなかったことにしたるよ?」
「出ていけば・・・」
「せやせや。別れてくれればオーケイや。あ、桐月や谷に相談するのはあかんよー?まあ、したところでこっちも徹底的に潰しにかからしてもらうけどな。嫌やろ?一家揃って路頭に迷うとかなぁ。君の親父さん、個人事業主やしなぁ。簡単に、な?」
最後の言葉と一緒に空いている片手で、もう一方の手を、まるで虫でも潰すかのように叩いた。顔は相変わらず笑顔で、余計に気味悪さを増長させた。
桐月を潰したいというよりは、桐月を取り込もうとする勢力なのか・・・。俺に個人的な恨みを買うようなことはなかったと思う。あさにしてもそうだろう。あさが嗣にぃの婚約者ということを除けば、俺たちは、春見はあくまで一般的な家庭でしかない。
「・・・・・・・・・」
「2週間もあれば、出ていけるやろ?猶予はそんくらいで。また連絡させてもらうわ。ほな、な。春見ゆうくん」
男は写真を纏めて、しまう。そして軽く手を振る。横を過ぎていく姿に俺は何も言えず、立っていた。
そのすれ違いざま、
「君、女の子の姿も似合うなぁ?」
俺にだけ聞こえる声で、そう落とした。
思わず振り返った俺に、男は軽く手を振る。俺はその姿が見えなくなっても、歩いて行った方向を馬鹿みたいに見ていた。
どうする?どうやって回避すればいい??
嗣にぃには相談できない。姫先輩にも。
先輩は優しいから、何か手段を講じてくれはするかもしれない。けれど、きっと・・・相談して先輩が動けば、今度は先輩自身か先輩の家か・・・迷惑がかかってしまう。
と、なれば。嗣にぃにしろ、先輩にしろ、この二人に関わる人間は全員アウトだ。
親もダメだ。迷惑しかかけないのもあるが、春見がどうこうしたところで、という思いもある。
他には?自分だけでならば?
何をどうすれば、桐月を春見を害せずに嗣にぃと一緒にいられる?
ーー無理じゃないか?俺みたいな学生に、どうすれば対抗できる??
相手は名前さえ名乗らなかった。恐らくだが、聞いたところで俺がどうにかすることは無理なのだろうと思う。春見を、父さんの会社を潰すのが簡単と判断する輩だ。しかも、俺があさを演じていることに、あの男は、気付いている。
俺にしろ、嗣にぃにしろ、浮かれ過ぎていたのかもしれない。こういう事態だって想定すべきだった。
今日だって手を繋いでいたし・・・写真なんかキスしてる写真だったぞ?!アホか、俺らは・・・。
俺は、あさと俺が区別がつかない、という思い込みにあぐらをかいていた。嗣にぃもそうかもしれない。
危機管理能力、なさすぎな。もう、笑いしかでない。
ああ・・・。
何だよ、これ・・・・・・好きな人と一緒に居れると思ったら、これか。
何だよ、一体・・・好きな人を好きでいて、一緒にいるのは、こんなに難しいのか・・・。
誰にも迷惑かけずに、って俺が居なくなるしかないじゃん・・・。
まさにこれが、上げて落とすってやつだ。
はは、最悪だな、神様。
※
楽しいはずの夏祭りは、心から楽しめず、俺以外が俺を気遣っていることに申し訳なさしかなかった。
誰も彼もが優しい。・・・だから、迷惑はかけたくない。守りたい。
別れたら、もう話もしてくれないだろうか?嗣にぃは。どう言えばいい?わからない。帰りもずっと考えた。けれど、何を言えばいいかなんて、まるで浮かばなかった。だって、好きだ。別れたくない。嗣にぃだって、俺を好きだと言ってくれている。
なのに、何故?
ああ、でもそれで大事な人が傷つくのは嫌だ。
時間が経てば少しはマシになるのかな?
考えれば考える程、頭の中はまとまらなかった。
だから、俺は、
「・・・・・・別れよう。久嗣さん」
そんな簡単なことしか言えなかった。
本来ならば、相手を納得させる言い方なりをしなければならないのだと思う。けれど、俺自身が納得も出来ないことを、どうすれば、どう言えばいい?
浮かばねーわ、そんなん・・・。
嗣にぃは暫く、俺を瞠目していた。暫くして、その手が俺へと伸びる。俺は一歩引いてそれを避けた。
「どうして?ゆうくん」
先ほどまでの声とは違い、低く嗣にぃが言った。
どうして?俺が知りたい。どうして別れないといけないんだろう。
ああ、理由はわかってる。
でも、納得は・・・やっぱり、出来ない。
どうしてだろうね・・・俺にしろ、嗣にぃにしろ、望んだものじゃない。
「・・・・・・・・・」
何も答えられないから、俺は一歩一歩後ろに逃げる。
こんなの茶番だな、と思った。いつかみたいに外に逃げるならば兎も角、俺が逃げているのは部屋の中だ。出て行きたくない、という俺の心がそうさせてるのかもしれない。出て行くと、別れると、そう言ったくせに逃げるのは外ではないのだから。
室内なのだから、そんなに逃げる場所もない。リビングに面している窓を背に、追い詰められる。片手を取られて、カーテンごとガラス戸に押しつけられた。
「ゆうくん」
目を合わす勇気もなく俯く俺の顎を、嗣にぃの片手が取って、上げさせられた。
嗣にぃは眉根に深く皺を刻んでいて、その表情は怒りとも困惑とも取れる。
俺はやはり視線を合わせるのは無理で、目を伏せる。
「別れるって、どういうこと?」
「・・・・・・・・・そのまま、だよ・・・」
「そのまま、ね・・・僕が、何かしたかな?」
「・・・・・・・・・何も・・・」
俺がそう答えたところで、嗣にぃが溜息を吐く。
・・・怖い。嗣にぃが怖い。ああ、違う・・・・・・嗣にぃの答えが、俺は怖い。
自分から切り出した別れを了承されるのが、怖い。
「じゃあ、どうして?」
「・・・・・・言いたく、ない・・・・・・」
「ゆうくん・・・・・・」
俺の顎にあった手が離れて、そのまま腰に回る。押し付けられていた手と一緒に強い力で抱き寄せられた。
嗣にぃは一度力を込めて俺を抱きしめた後、髪や耳へと口付けてくる。俺は軽く息を詰めながら、腕の中にいた。嗣にぃが、もう一度緩く溜息を吐いた。
「・・・わからないな。別れたいのに、嫌がらないんだね」
「・・・あ・・・・・・」
そうか。嫌がって、振り払って、逃げなきゃいけない。前みたいに。
けれど、そう思えば思うほど、身体はまるで動かなかった。
※
「く、ふぁ・・・やぁあっ・・・も、ぉ・・・」
寝室で、俺は嗣にぃに抱かれていた。
無理矢理でも何でもなく、拒む術を忘れて。
嗣にぃのものが、浅い場所だけで抽送を繰り返す。それは良いところに触れそうで触れない。前戯の時からずっとそうやって、焦らされている。
キスさえも触れるようなみのばかりで、俺がどんなに舌を伸ばしても、いつものようには与えては貰えないでいた。
欲しいところに欲しい刺激が貰えず、外も中も昂りが発散できない辛さで涙が滲んだ。
「・・・ほしい?」
嗣にぃが俺の上から問いかけながら、弱い部分の手前でソレを止めた。俺は見上げて、頷く。
「ちゃんと言ってごらん。誰のもので何をされたいか・・・」
腰が揺さぶられて、前立腺に先があたるだけでも息が漏れた。刺激が欲しくて自分から腰を動かすと、嗣にぃのものが入り口付近まで抜かれる。
少しでも動けば抜けてしまいそうで、俺は何回か首を横に振る。
「あ、やぁ、だめ・・・っ、ぬけ、ちゃ・・・」
「ゆうくん、言って?」
嗣にぃは嗜めるように、もう一度言った。
俺は息を呑み込み、
「嗣にぃので・・・嗣にぃのを、俺の、奥にちょうだい・・・っ・・・」
嗣にぃに視線を合わせながら、懇願する。恥ずかしさよりも快楽が勝っていた。
深いキスだってして欲しいし、いつもみたいに触って欲しい。
「ゆうくんが欲しいのは僕?それとも、誰でもいい・・・?」
ソレがまた、中の浅い部分に入りつつも気持ち良いところには当ててもらえない。
問われることに、首を横に振る。
当たり前だ。誰でもいいわけじゃない。どんなに焦らされようが、何をされようが、欲しいのは目の前にいる男であって、他の男とこんなことしようだなんてこれっぽっちも思わない。
「嗣にぃ、がいい・・・嗣にぃしか、やだぁ・・・・・・」
そう告げれば嗣にぃは、ふ、と眉を寄せながら微笑んで、浅い場所で止めていた腰をゆるゆると動かす。
先が弱い部分をノックした。そうしつつ、俺の身体を折り曲げて、その上に体重をかけるようにしてきた。
「あ、あ、あっ・・・やぁ、嗣にぃ、嗣にぃ・・・っ」
「・・・不思議だね。ゆうくんが欲しがるのは僕だけなのに別れたがるだなんて」
浅い部分から一番最奥まで、ごちゅん、と一気に貫かれる。
「あ”、あ、あああああ、ぁっ・・・!」
漸く与えられた刺激だったが、あまりにもそれは強くて。俺は目を見開きながら、悲鳴のような声をあげるしかなかった。目の前が一瞬真っ白になる。
「ゆうくん、僕が好き?」
俺は聞かれることへ、躊躇わず頷いていた。
別れると言ったくせに、弱いな、と頭の隅にいる冷静な自分が苦笑する。だって、無理だ。ずっと好きだった、嗣にぃ。それが、俺を好きだといい、俺を抱いている。
どうやれば別れる気持ちになれる?別れなければならない、と頭ではわかっていても、だ。
腰が浅い場所まで戻り、勢いをつけて、また中を抉る。
「ひぐっ・・・あ、やぁっ、だめ、まって・・・っあっ・・・」
「・・・絶対に、駄目だよ。別れない・・・」
容赦なく抽送は繰り返されて、俺は堰き止められていた快楽を放出する。嗣にぃが奥を突く一回一回に伴って、俺も中で達していた。焦らされた分だけ、頭がおかしくなりそうなほど、気持ちが良い。
多分それは嗣にぃが『別れない』と繰り返してくれるのもある。単純に・・・嬉しい。別れないと言ってくれるのが。
・・・無理じゃん、俺。心だって、身体だって、駄目じゃん・・・。
おかしな話だ。生きる死ぬの問題ではなく、たかが恋愛だ。時間が過ぎれば「ああいうこともあったな」と言える日だってくるかもしれない。
でも、されど恋愛だ。嗣にぃと別れて生きていける気がしない。・・・実際に死ぬことは、死ぬ勇気もない俺のことだから、多分ないのだろうけど、心は死ぬ。
「あ、あ、あ、っ、つぐにぃ、つぐにぃ・・・っ」
何度も何度も俺は嗣にぃを呼びながら手を伸ばす。
嗣にぃの指が俺の指に絡まって、俺の手をシーツへと押し付けた。
俺の顔の横にある嗣にぃの手に顔を寄せて口付ける。
「ゆうくん・・・好きだよ、ゆうくん・・・」
唇同士が重なると、息が声が熱が重なって、溶け合う。
絡められた指を握り込みつつ、このまま夜が明けなければいいと、そんなことを思った。