目を開けたのは、珍しくセラディスよりも先だった。カーテンの隙間はほんのりと青白く、鳥の声はまだしない。
夜と朝の境目にあるような、世界が目を覚ます前の静けさが、部屋の中に満ちていた。
隣に眠るセラディスの寝顔は、どこまでも穏やかで美しかった。だけど、その瞼の下にどれだけの痛みが隠されているのかと思うと、あたしの胸は重たく沈んだ。
そっと、彼のナイトシャツの詰襟に指をかける。布の下に隠されたその赤い跡は、まだ消えずに残っていた。
あたしは目を伏せた。見たのはあたしの意思だった。けれど、見なければよかったと思ってしまった。
アウレリアを発って二日目の街道。馬車は静かに揺れていた。踏み慣らされた道を車輪が軽やかに進んでいく。牧歌的な景色が車窓を流れる。
「セラディス、お願いがあるの」
窓外を見つめていた彼の目が、優しくあたしに向けられた。
「何ですか?」
「あたしが誘拐されたこと、ルミナスのみんなには言わないで。心配掛けたくないんだ」
それは言葉どおりの理由でもあったが、別の理由が大きかった。
エリオードだ。彼がもしも、さらわれたあたしの救出をセラディスがユダリスク司教に頼んだことを知れば、そこから芋ずる式に、セラディスの首元の赤い跡まで辿り着いてしまいそうな気がした。
セラディスは薄く微笑みながら言った。
「もともと言うつもりはありませんでした」
その答えに、あたしはホッと息を吐いた。
けれど、独り言のように唐突に呟かれた次の言葉は、あたしの胸中に一匹のムカデを放った。
「こうしてあなたと穏やかに言葉を交わせているのも、すべてはユダリスク司教のおかげですね」
ムカデはこのあと長い間、あたしの内側を蝕み続けることになる。
馬車は予定どおり夕方ごろ、聖都ルミナスの司祭館に帰着した。門前にはエリオードが立っていた。
「よお」
「ただいま」
窓越しに一回、馬車を下りてからもう一回、再会のあいさつを交わしながら、あたしは彼の目を直視することができなかった。
でもセラディスは、いつもと変わらない笑顔を彼へと向ける。
だからあたしも便乗して、背の高い彼の鼻辺りを見上げながら、冗談っぽく言ってみた。
「ひとりで寂しかったでしょ」
笑った。胸がじくじく痛んだ。ムカデがあたしの心臓の端を齧っていた。
言えない。言えるわけがない。
セラディスを守れなかったこと。エリオードに打ち明ければ、それはたちまちセラディスの尊厳を傷つけることとなる。
だから言えない。ごめんなさい、と謝ることさえ、またできない。
あたしは馬車旅で肩が凝ったフリをして体を伸ばし、空を見上げた。空を見ている間は、他の誰かを見なくてすむ。
ああ、今日の夕日はなんて赤いのか。
まるで血だ。
夜、シャワーを終えて自室に戻る途中だったあたしは、バスルームへ向かうセラディスのあとを、エリオードが追いかけていくのを見た。
あたしは肩に掛けていたタオルで背後からエリオードの首を絞めて彼を引き留めた。
「っ……オイ! 殺す気かよ!?」
「あんたが不埒なせいでしょ」
「ああ!?」
セラディスがあたしたちの悶着に気づき、足を止めて振り向いた。エリオードはあたしに首を絞められたまま、嬉々として言う。
「セディ! 疲れただろ? 俺が頭洗ってやるよ」
「余計に疲れるのでやめてください。もし入ってきたら……嫌いになります」
嫌い、という言葉に相当ショックを受けたのか、エリオードはそれきり、叱られた子犬のように大人しくなった。
「アウレリアでは、何も問題なかったんだよな?」
セラディスが行ってしまい、エリオードは首を絞めるタオルを奪い取りながらあたしを振り向いた。あたしは役目を終えたタオルをあっさり手放した。
問題なかったか。その意味するところはわかっている。
「なかったよ」
嘘だった。
エリオードは黙ったまま、あたしにタオルを返した。彼のグレーの瞳はまっすぐあたしに向けられていた。
「バレッタはどうした?」
ああ。
「どうした、って? シャワー浴びたばっかりで、つけてるわけないじゃん」
「違う。帰ってきたとき、つけてなかったな?」
彼が、こんなに目敏い男だとは思っていなかった。意中でもない女に渡した髪飾りのことを、いちいち覚えていて、見ているなんて。
出発の朝、エリオードがくれた隠しナイフ仕込みのバレッタは――あたしを襲った布袋の男の手に、突き刺したまま置いてきた。
「ごめん、アウレリアの司祭館に忘れてきちゃった」
「そうか。だったら電話して送ってもらうといい」
逃れられないなと思った。
けれど、逃れなければならなかった、セラディスのために。
「ごめんなさい、本当は、無くしたんだ」
「無くした?」
あたしは敢えて、エリオードの視線を正面から受け止めた。彼は真剣だった。あたしの言葉に嘘がないか、見極めようとしているようだった。
長い沈黙だった。
見つめてくる目の奥に、数えきれない問いが浮いては沈んでいるのを感じた。
やがて彼は、顔を逸らして小さく息を吐いた。
「結構高かったんだけどな。まあいいか」
廊下の遠い向こうから、セラディスがシャワーを浴びる音が小さく聞こえ続けていた。