瞼の裏に、金色の波がゆらゆらと揺れている。目を開けてみると、レースカーテンの上部から漏れた陽光が白い天井に光の帯を作っていた。
ここは……アウレリアの司祭館? あたしの部屋……?
「ああマナシア、よかった」
視界にセラディスの顔が現れた。
彼の手がそっとあたしの頬に触れる。
「マナシア、何があったか覚えていますか? いえ、無理に思い出さなくてもいいんです。夜になっても帰ってこないから、心配で気がおかしくなるかと思いました」
あたしはベッドの上に横たわっているようだった。
何が起きているのか理解できない。あたしは助かったの?
まるで長い夢を見ていたような感覚。でも、すべてが夢だったわけじゃない。
どこまでが現実で、どこからが夢で、あたしはいつ司祭館に帰ってきたのか。
「町中に顔のきくユダリスク司教に捜索をお願いして、朝方ようやくあなたを見つけ出したんです。でも、もう大丈夫。安心してください。ここは安全です」
セラディスが泣きそうな表情で、あたしの頬や髪を撫でてくれる。
そんな顔しないで、あたしは大丈夫だよと伝えたいのに、口が上手く動かなくて、声も出ない。
セラディスの頬を撫で返したいのに、腕が上がらない。
「体が動かないのは飲まされた薬のせいです。強い幻覚作用と麻痺作用があるとのことで……」
薬って何? あたしはそんなもの……。
「でも心配しないでくださいね。ユダリスク司教が特別な対抗薬を分けてくださるので、それを飲めばすぐよくなります。今から貰いに行ってきます。夕方までには戻りますので」
えっ? 医師じゃなくユダリスク司教のもとへ? セラディスひとりで?
そんなの駄目! あいつにいいようにされてしまう。
行かないで、と叫びたかった。
口よ動け、喉よ震えろ、と焦る心で必死に念じる。
声にならない呻きが喉の奥で泡立ち、指先が僅かにシーツをこする――それだけだった。
なんで!? どうして!?
舌の上に、僅かな甘みと苦みが残っているのに気がついた。これは何?
ふわりと鼻に抜けたその香りに、脳の奥がざわめく。
『ブルームーン・ティアーズを頼む』
男の、低く艶やかな声が、鮮やかによみがえった。
そうだ。あのとき。あの男がウェイターに耳打ちしていた。
特別に用意させた青いカクテル。甘ったるいジュースみたいな。
心臓がひとつ、跳ねた。
あれに、薬が……。
「大丈夫ですからね」
その微笑みはどこまでも優しく、どこまでも残酷だった。
いや。やめて。行っちゃ駄目。
セラディスは立ち上がると、背を向けて、扉の方へ歩いていく。
動け、動け、動け!
声よ出ろッ!
誰かっ……セラディスをとめて!!
「――っ」
声にならない声は、彼まで届かない。
扉が開き、そして閉まった。
絶望的な静寂。
全身のどこもかしこも動かせないのに、心臓だけが全力疾走したあとのように激しく鼓動している。
眩暈がした。それから猛烈な睡魔に襲われて、あたしは意識を手放した。
再び目を覚ましたとき、室内は夕日で赤く染まっていた。
唇が動き、手が動くようになっていた。
「あ……あー……」
かすれてはいるが、声も出る。
ひどく口が渇いていた。何度か無理に舌を動かして、僅かに滲んだ唾液を飲み込んでみると、漢方薬のような植物っぽい嫌な苦みを感じた。
右の膝あたりに重みがあった。視線を向けてみる。
スツールに腰掛けたセラディスが、上半身をうつ伏せて寝入っていた。
あたしは彼を起こさないよう、慎重に上体を持ち上げた。
彼の体から、香の匂いがした。紛れもない、ユダリスク司教の香だった。
彼の寝顔を見つめていたあたしの目に――見えてしまった。
神父服の詰襟の隙間から。首の後ろの、付け根のあたり。自分で鏡を見たときには気づきにくい場所。
赤い跡。
淡くにじむその痕跡は、ひと目で
体が、内側から一瞬で凍りついた。
呼吸が、止まった。
何かが胸の奥で、音を立てて砕けた。
思考が、砂の城のように崩れていく。
誰が、そこに唇を寄せたのか、考えなくてもわかりきっている。
目の前が滲んだ。言葉にならない衝動が、喉の奥でぐらついた。叫びたかった。叫べたらよかった。だけど……だけど……。
ただ涙が、喉の奥に溜まっていく。
あたしは、あたしの無知と愚かさが、彼を、あの男のもとへ――
彼の瞼が震え、深い青色の瞳が現れる。
黄昏時の赤に支配されたこの部屋で、彼の青はひどく暗い。
頭が持ち上がり、虚ろな目があたしを見た。
あたしは、何も言えなかった。ただ、手を伸ばして、彼の頬に触れた。
彼は微笑んだ。いつものように、穏やかに。
あたしは守られたのだ。守ると誓ったのに。自分自身に、そしてエリオードに。
「よかった、体が動くようになったのですね」
その声があまりにも優しくて、あたしは壊れてしまいそうだった。壊れたかった。
いっそのこと、あたしがッ……!
セラディスの頭を掻き抱いた。
声が、戻らなければよかった。そうしたら、無様な嗚咽を聞かれずにすんだのに。
「大丈夫ですよ……大丈夫です」
彼の手は、あたしの背中を撫で続けた。
あたしは憎かった。恨んだ。殺してしまいたかった。ユダリスク司教を、じゃない。
あたしを。
翌朝、あたしとセラディスは馬車で司祭館を発った。
窓外の町を見つめながら――ユダリスク司教のおかげだと口々に言った人たちを見つめながら、あたしはこの世界を、セラディスを取り巻くしがらみを、アレオン教の抱える闇を、何も知らなかったのだと思い知らされていた。
知らないことは、罪だ。
あたしをさらった布袋の男たち。あたしを傷ものにするよう彼らに命じたおおもとは、一体誰だったのだろう。
あたしを案内してくれたガイドの少年ミシェ。彼は無事だったと聞いたけれど……彼は本当に、ただのガイドだったのか。
ただ本当に、路地裏の野良猫たちを見せたかっただけだったのか。
あたしを買った娼館の女主人マダム・サファイア。買って間もないあたしをすぐに手放したのは何故だろうか。あたしを助け出したというユダリスク司教が金を払った? 娼婦ひとりの身請け代は、セラディスがパッと払える金額ではなかったはずだ。
正面の席に座るセラディスを見る。窓外を眺める彼の横顔は、相変わらず美しい。けれど、心ここにあらずで、風が吹けば消えてしまいそうな儚さだった。
夕方、行きと同じくアルマータの町に到着した。行きとは別の宿屋で、別々の部屋をとった。それを申し出たのはあたしだ。ちょっとひとりになりたい、とか言って。
それがセラディスへの気遣いだと思った。それにあたしは本当に、少しひとりになりたかったのだ。
夕飯を食べに行こうとも言い出せなくて、あたしはセラディスが気をきかせて誘ってくる前に、市場に出て食べ物を買った。それをセラディスの部屋のドアノブに引っかけて、自分の分は自室で独り、もそもそと食べた。
味がしなかった。こんなときでも空腹を覚える自分に腹が立った。
夜になって、ドアがノックされた。出てみると、セラディスだった。
彼は詰襟のナイトシャツを着ていた。あたしは昨日の夕方に見た、彼の首のうしろの赤い跡を思い、気持ちが地の底まで墜落した。
「一緒に寝てもいいですか」
そんなことを彼が言ってくるのは初めてだった。あたしは彼をベッドに招き入れたけれど、いつものように抱きつくどころか、手に触れることさえできなかった。
触れたら、彼の触れてはいけない部分にまで触れてしまうような気がした。
セラディスは、いつもそんなふうにしないのに、あたしのほうを向き、あたしを抱き寄せた。
「ずっと、そばにいてください」
その腕が震えていた。
あたしは溢れ出しそうな涙を必死にこらえた。泣いたらまた、あたしのほうが慰められる側になる。守られる側になってしまう。
あたしはセラディスの背に腕を回して力いっぱい抱き締めた。
「どこにも行かないよ。ずっとそばにいる」
声が震えないようにそう言うだけで、精一杯だった。