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第53話:無知はあたしの罪なのに、罰が殺したのはあたしじゃない

 瞼の裏に、金色の波がゆらゆらと揺れている。目を開けてみると、レースカーテンの上部から漏れた陽光が白い天井に光の帯を作っていた。


 ここは……アウレリアの司祭館? あたしの部屋……?


「ああマナシア、よかった」


 視界にセラディスの顔が現れた。

 彼の手がそっとあたしの頬に触れる。


「マナシア、何があったか覚えていますか? いえ、無理に思い出さなくてもいいんです。夜になっても帰ってこないから、心配で気がおかしくなるかと思いました」


 あたしはベッドの上に横たわっているようだった。


 何が起きているのか理解できない。あたしは助かったの?

 まるで長い夢を見ていたような感覚。でも、すべてが夢だったわけじゃない。


 どこまでが現実で、どこからが夢で、あたしはいつ司祭館に帰ってきたのか。


「町中に顔のきくユダリスク司教に捜索をお願いして、朝方ようやくあなたを見つけ出したんです。でも、もう大丈夫。安心してください。ここは安全です」


 セラディスが泣きそうな表情で、あたしの頬や髪を撫でてくれる。

 そんな顔しないで、あたしは大丈夫だよと伝えたいのに、口が上手く動かなくて、声も出ない。

 セラディスの頬を撫で返したいのに、腕が上がらない。


「体が動かないのは飲まされた薬のせいです。強い幻覚作用と麻痺作用があるとのことで……」


 薬って何? あたしはそんなもの……。


「でも心配しないでくださいね。ユダリスク司教が特別な対抗薬を分けてくださるので、それを飲めばすぐよくなります。今から貰いに行ってきます。夕方までには戻りますので」


 えっ? 医師じゃなくユダリスク司教のもとへ? セラディスひとりで?

 そんなの駄目! あいつにいいようにされてしまう。


 行かないで、と叫びたかった。

 口よ動け、喉よ震えろ、と焦る心で必死に念じる。


 声にならない呻きが喉の奥で泡立ち、指先が僅かにシーツをこする――それだけだった。


 なんで!? どうして!?


 舌の上に、僅かな甘みと苦みが残っているのに気がついた。これは何?

 ふわりと鼻に抜けたその香りに、脳の奥がざわめく。


『ブルームーン・ティアーズを頼む』


 男の、低く艶やかな声が、鮮やかによみがえった。


 そうだ。あのとき。あの男がウェイターに耳打ちしていた。

 特別に用意させた青いカクテル。甘ったるいジュースみたいな。


 心臓がひとつ、跳ねた。

 あれに、薬が……。


「大丈夫ですからね」


 その微笑みはどこまでも優しく、どこまでも残酷だった。


 いや。やめて。行っちゃ駄目。


 セラディスは立ち上がると、背を向けて、扉の方へ歩いていく。


 動け、動け、動け!

 声よ出ろッ!

 誰かっ……セラディスをとめて!!


「――っ」


 声にならない声は、彼まで届かない。


 扉が開き、そして閉まった。


 絶望的な静寂。

 全身のどこもかしこも動かせないのに、心臓だけが全力疾走したあとのように激しく鼓動している。


 眩暈がした。それから猛烈な睡魔に襲われて、あたしは意識を手放した。



 再び目を覚ましたとき、室内は夕日で赤く染まっていた。

 唇が動き、手が動くようになっていた。


「あ……あー……」


 かすれてはいるが、声も出る。

 ひどく口が渇いていた。何度か無理に舌を動かして、僅かに滲んだ唾液を飲み込んでみると、漢方薬のような植物っぽい嫌な苦みを感じた。


 右の膝あたりに重みがあった。視線を向けてみる。

 スツールに腰掛けたセラディスが、上半身をうつ伏せて寝入っていた。


 あたしは彼を起こさないよう、慎重に上体を持ち上げた。


 彼の体から、香の匂いがした。紛れもない、ユダリスク司教の香だった。


 彼の寝顔を見つめていたあたしの目に――見えてしまった。

 神父服の詰襟の隙間から。首の後ろの、付け根のあたり。自分で鏡を見たときには気づきにくい場所。


 赤い跡。


 淡くにじむその痕跡は、ひと目でとわかった。


 体が、内側から一瞬で凍りついた。

 呼吸が、止まった。


 何かが胸の奥で、音を立てて砕けた。

 思考が、砂の城のように崩れていく。


 誰が、そこに唇を寄せたのか、考えなくてもわかりきっている。


 目の前が滲んだ。言葉にならない衝動が、喉の奥でぐらついた。叫びたかった。叫べたらよかった。だけど……だけど……。


 ただ涙が、喉の奥に溜まっていく。


 あたしは、あたしの無知と愚かさが、彼を、あの男のもとへ――


 彼の瞼が震え、深い青色の瞳が現れる。

 黄昏時の赤に支配されたこの部屋で、彼の青はひどく暗い。


 頭が持ち上がり、虚ろな目があたしを見た。

 あたしは、何も言えなかった。ただ、手を伸ばして、彼の頬に触れた。


 彼は微笑んだ。いつものように、穏やかに。


 あたしは守られたのだ。守ると誓ったのに。自分自身に、そしてエリオードに。


「よかった、体が動くようになったのですね」


 その声があまりにも優しくて、あたしは壊れてしまいそうだった。壊れたかった。


 いっそのこと、あたしがッ……!


 セラディスの頭を掻き抱いた。

 声が、戻らなければよかった。そうしたら、無様な嗚咽を聞かれずにすんだのに。


「大丈夫ですよ……大丈夫です」


 彼の手は、あたしの背中を撫で続けた。

 あたしは憎かった。恨んだ。殺してしまいたかった。ユダリスク司教を、じゃない。


 あたしを。



 翌朝、あたしとセラディスは馬車で司祭館を発った。

 窓外の町を見つめながら――ユダリスク司教のおかげだと口々に言った人たちを見つめながら、あたしはこの世界を、セラディスを取り巻くしがらみを、アレオン教の抱える闇を、何も知らなかったのだと思い知らされていた。


 知らないことは、罪だ。


 あたしをさらった布袋の男たち。あたしを傷ものにするよう彼らに命じたおおもとは、一体誰だったのだろう。


 あたしを案内してくれたガイドの少年ミシェ。彼は無事だったと聞いたけれど……彼は本当に、ただのガイドだったのか。

 ただ本当に、路地裏の野良猫たちを見せたかっただけだったのか。


 あたしを買った娼館の女主人マダム・サファイア。買って間もないあたしをすぐに手放したのは何故だろうか。あたしを助け出したというユダリスク司教が金を払った? 娼婦ひとりの身請け代は、セラディスがパッと払える金額ではなかったはずだ。


 正面の席に座るセラディスを見る。窓外を眺める彼の横顔は、相変わらず美しい。けれど、心ここにあらずで、風が吹けば消えてしまいそうな儚さだった。



 夕方、行きと同じくアルマータの町に到着した。行きとは別の宿屋で、別々の部屋をとった。それを申し出たのはあたしだ。ちょっとひとりになりたい、とか言って。

 それがセラディスへの気遣いだと思った。それにあたしは本当に、少しひとりになりたかったのだ。


 夕飯を食べに行こうとも言い出せなくて、あたしはセラディスが気をきかせて誘ってくる前に、市場に出て食べ物を買った。それをセラディスの部屋のドアノブに引っかけて、自分の分は自室で独り、もそもそと食べた。

 味がしなかった。こんなときでも空腹を覚える自分に腹が立った。


 夜になって、ドアがノックされた。出てみると、セラディスだった。

 彼は詰襟のナイトシャツを着ていた。あたしは昨日の夕方に見た、彼の首のうしろの赤い跡を思い、気持ちが地の底まで墜落した。


「一緒に寝てもいいですか」


 そんなことを彼が言ってくるのは初めてだった。あたしは彼をベッドに招き入れたけれど、いつものように抱きつくどころか、手に触れることさえできなかった。

 触れたら、彼の触れてはいけない部分にまで触れてしまうような気がした。


 セラディスは、いつもそんなふうにしないのに、あたしのほうを向き、あたしを抱き寄せた。


「ずっと、そばにいてください」


 その腕が震えていた。


 あたしは溢れ出しそうな涙を必死にこらえた。泣いたらまた、あたしのほうが慰められる側になる。守られる側になってしまう。


 あたしはセラディスの背に腕を回して力いっぱい抱き締めた。


「どこにも行かないよ。ずっとそばにいる」


 声が震えないようにそう言うだけで、精一杯だった。

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