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第17話 郭嘉奉孝

 兗州で曹操と呂布が争っていた頃、長安では激しい権力闘争が行われていた。

 献帝を誰が擁するか。それで最大の権力者が決まる。

 皇帝の一番近くに侍る者は、絶大な権力を得る。詔勅を引き出すことができれば、天下を自在にできる。

 群雄割拠時代に入り、それは幻想にすぎなくなっていたが、長安ではまだそう信じられていた。

 若干の真実は残っている。後漢皇帝の言葉を尊く思う勤皇の士は各地に残存し、勤皇の士のふりをする者も数多くいた。

 たとえば劉備は、高祖劉邦の曾孫、中山靖王劉勝の末裔であると称しており、漢の帝室のために戦っている。少なくともそういうふりをしている。


 献帝は董卓にかつがれて即位した。聡明な人で、自らには力がないとわかっている。

 その董卓は、呂布と王允に殺された。呂布は李傕・郭汜軍に敗れて長安から去り、王允は極刑に処された。

 長安は李傕、郭汜、張済、董承、楊奉らの実力者による寡頭制に移行した。

 相変わらず献帝には実権がない。実力者たちは唯一無二の独裁者をめざして、皇帝の奪い合いをしている。

 献帝は感情を持つひとりの人間というより、価値のある権力人形と見られている。

「洛陽に帰りたい」と帝はつぶやいた。

 故郷へ帰り、誰にも支配されない暮らしを送りたい。

 叶えることがむずかしい願いであるとわかっている。


 この時期、曹操は献帝の争奪にまったく関与していない。

 兗州の統治で手一杯。

 献帝を掌中にするべきと考えたのは、郭嘉奉孝である。

 彼は170年、豫州潁川郡生まれ。

 現実的理想主義者とでも言うべき変わり種であった。


 曹操には王道を歩んでもらいたい。

 漢王朝のために働き抜き、天下を平定するという大功を成し遂げ、正々堂々と禅譲してもらって、皇帝位に即けばよい。

 そのために必要なら、曹操は劉操に名を変えてもいいのではないか、と思っている。


 理想を現実にするために、柔軟な思考をするのが、郭嘉という男である。

 徐州大虐殺には反対したが、曹操が復讐にこだわり、止めようがないと知ると、同行して徐州軍との戦いの参謀役となった。

 呂布軍との戦いが勝利に終わると、曹操の将来のための遠大な計画を考え始めた。この段階では、理想を想う。

 献帝をお迎えしたい。

 それを実現するための具体策を練る。

 兗州では遠い。

 郭嘉は、豫州がよいと考えた。それも彼の故郷、潁川郡が洛陽に近く、皇帝の御所としてふさわしい。


 195年、豫州刺史は郭貢であったが、実態はともなっていない。

 豫州は黄巾軍残党の支配地域であった。


「殿、豫州をお取りください。天下を平定するため、版図を拡大していかねばなりません」

 郭嘉は、まだ献帝のことは胸中に秘めて、曹操に提案した。

「呂布との戦いが終わったばかりだ。いまは兗州の内治に集中したい」

「隣の豫州が乱れております。放っておけば、黄巾賊は兗州にも入ってくるかもしれません。逆に攻めて禍根をなくし、かつ支配地を広げるのが上策です」

「それもそうか」

 曹操はその気になった。


 この頃、曹操は典韋が大のお気に入りだった。呂布軍との戦いでは、数十人の歩兵を率いて突撃し、八十斤の重い戟をふるって敵兵をなぎ倒した。

「悪来のようだ」と曹操は評した。悪来とは、殷の紂王に仕えた剛力の武将である。


 曹操は、親衛隊長の典韋を豫洲へ連れていった。彼は常に侍立して守ってくれる。

 相変わらず無口で口下手だが、そんなところも好ましい。


 豫洲の黄巾賊を討つと、沛国にいた許褚が帰順してきた。身の丈八尺の偉丈夫であった。

「わが樊噲だ」と曹操は言った。樊噲は劉邦に仕えた剛勇な武将。

 典韋と許褚のふたりは、曹操が得た多くの士の中で最強である。劉備のもとにいる関羽と張飛に匹敵する。


 曹操は兗州と豫州をあわせ持つ統轄者となった。

 郭嘉は次の策を提案した。

「本拠地を司隷の近くへ移すべきです。洛陽の南、豫州潁川郡はいかがでしょうか」

「潁川のどこがよいか」

「許県が栄えており、首府とするにふさわしいかと」

「そうしよう」

 この頃になると、曹操は郭嘉を信頼するようになっている。

「私の大業を成就させるのは、そなたであろう」という言葉をかけたこともある。   


 曹操は許県に移り、幕僚と軍勢を集め、衙を整備した。

 196年に入り、ついに郭嘉は胸中の秘策を曹操に明かした。

「許県に献帝陛下をお迎えし、この地を許都になさいませ」

「帝をここに?」

「はい。殿が皇帝陛下をお守りし、天下を主導するのです」

「貴様、前々からそのことを考えておったな」

「すべては殿が王道を歩むためです」

 郭嘉は深々と頭を下げた。


「殿は議郎や校尉として朝廷に仕えたことがありますね。洛陽の要人のどなたかに伝手はございませんか」

「伝手ならある。なにをしたいのだ」

「私が使者となりますので、手紙を書いていただけませんか。内容は、長安の情勢が心配である。献帝陛下はお元気にされているだろうか、というだけでよろしいかと。殿が帝の心配をしていると伝われば、物事はよい方向へと動いていくでしょう」

 策士め、と曹操は思った。乗り気になったが、手のひらの上で転がされているようで、多少不愉快であった。


 曹操はすぐに手紙をしたためた。

「董承殿に会って渡せ。ただの伝令ではなく、彼と連絡を取り合えるよう、よく話してこい。皇帝陛下のご座所をお移しするとなれば、遷都である。そのような大事をなすべきときかどうか、長安のようすをよく見てまいれ」

 こうして、献帝の奪い合いに曹操も加わることになった。

 郭嘉が曹操と董承の間を何度か往復し、陰謀は進んでいった。


 帝は洛陽へ戻りたがっている。

 驃騎将軍の張済が、献帝を長安と洛陽の中間にある弘農県へ移そうとした。そこは彼の勢力下にある。安集将軍の董承と車騎将軍の楊奉も軍を率いて、帝を護送した。

 移動中に、司隷校尉の李傕と後将軍の郭汜が帝を奪い返そうとして、戦闘が起こった。

 張済は李傕・郭汜軍に降伏した。

 董承と楊奉が懸命に戦い、帝を連れて弘農を越え、洛陽まで避難した。

 しかしそこは、董卓が焼き尽くし、廃墟となっている。


「曹操を頼りましょう」と董承は献帝に進言した。

 曹操と董承の密約がすでにできあがっている。帝が頼れば、曹操は遅滞なく動くことになっている。

 196年夏、曹操が洛陽へ軍を出して、楊奉を追い払い、献帝を許に迎えた。むろん董承は同行している。

 許が後漢の都となった。すべて郭嘉の謀のとおりであった。 

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