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第16話 程昱仲徳

 兗州の大半を支配下に置いた呂布は、曹操の本丸とも言える東郡へ陣を進めた。

 曹操は徐州大虐殺の最中にあり、不在である。総司令官のいない軍は弱い。その隙をついた陳宮の反逆作戦はこれまでのところ大成功している。


 呂布は降兵を加え、約五万に勢力を拡大している。

 彼が直接率いる五百の騎兵は精鋭中の精鋭で、兗州各地で猛威をふるった。抵抗する軍は一蹴。その姿を見せるだけで、ほとんどの県軍が降伏した。攻城戦向きではないが、野戦では無類の強さを発揮する。

 軍師陳宮を得て、呂布軍は李傕・郭汜軍と戦ったときとは別物になっている。強い。陳宮はこれをいにしえの項羽軍を超える軍勢にしようと考えている。


 東郡には十五の県がある。

 そのうちの五県を曹操の直属の臣が守っている。

 濮陽城に夏侯惇、東武陽城に曹洪、鄄城に荀彧、東阿城に棗祗、范城に程立がいる。


 呂布軍が到来すると、曹操と縁の薄い十の県令たちは戦わずに、次々と降伏した。

 各県からは精兵が徴せられて、曹操とともに遠征している。残っている守備兵力は少ない。大勢力である呂布軍には抗せない。


 戦う前に降伏すれば、普通は殺されない。

 徐州の曹操の問答無用の虐殺は、例外的な愚行である。

 降伏しても命を奪われるとなれば、将兵と住民は共同して、死に物狂いで抵抗する。

 曹操の徐州攻めは最初こそ圧倒的で、琅邪郡を制したが、その南の東海郡で停滞した。


 徐州牧の陶謙は、青州刺史の田楷に救援を要請した。

 田楷は、その頃配下にいた劉備とともに徐州へ来援した。

 東海郡で、曹操は初めて劉備と交戦。

 妙に強い軍であった。特に関羽と張飛の二将が、無敵の働きを見せている。彼らに挑んだ兵の首は、例外なく宙を舞った。

「関羽と張飛。ふたりを従えているのは、劉備」

 その名が曹操の脳裡に深く刻まれた。

 曹操軍は食い止められた。

 陶謙は劉備を高く評価し、信頼するに至る。

「劉備殿がいれば、徐州を守ることができる」


 さて、呂布と陳宮は、敵兵をなるべく殺さない方針で、占領地を拡大している。県令が呂布を州牧と認めて降伏すれば、地位もそのまま保証して、旗下に取り込んだ。


 呂布軍に抗して、総司令官不在の曹操軍を主導したのは、程立仲徳である。

 彼は141年、東郡東阿県生まれ。155年生まれの曹操より年上で、東阿県から賊を一掃した経歴を持つ。

 劉岱の招きには応じなかったが、曹操に呼ばれると仕官した。故郷の知人はいぶかしんだが、程立は笑って答えなかったという。曹操の将来性を見抜いていたにちがいない。

 程立は若い頃、泰山に登って両手で太陽を掲げる夢をたびたび見た。曹操こそこの国にとっての太陽である、とまで看破していたかどうかはわからないが、徐州大虐殺を実行する彼を見捨てなかったことは特筆に値する。「留守はおまえに任せる」と言われたことが大きかったのかもしれない。


 程立は曹操に使者を送って、東郡の窮状をいち早く知らせた。使者には馬二頭を与え、替え馬によって急行を可能にした。

 つづいて、曹操の拠点を東郡に残す作戦を立てた。

 鄄城、東阿城、范城に戦力を集中し、やや遠隔地にある濮陽城と川向こうの東武陽城は捨てる。

 曹洪は程立の策に従うことにし、迅速に東武陽城を捨てて、東阿城に入った。

 濮陽城を守る夏侯惇は郡太守であるだけに躊躇し、呂布軍と濮陽城で戦った。城は陥落し、夏侯惇は捕虜になった。


 夏侯惇の部下、韓浩の行動は鮮やかだった。彼は敗残兵をまとめて、主を捕らえている部隊を攻撃した。

「殿を死なせることになる。申し訳ない」と泣きながら突撃。

 危険な賭けであったが、韓浩は敵将を斬り、夏侯惇を無事救出した。

 彼らは程立がいる范城に入った。

 程立は次なる手として、沇水に架かる橋を焼き、時間稼ぎをした。 


 東郡の城はあらかた落ち、残るは鄄、東阿、范の三城のみとなった。

 これらが陥落すれば、曹操は拠って立つ地を完全に失う。

 陳宮は追いつめたつもりだが、程立は守備的陣形を整えたつもりである。

 兵と食糧と弓矢を集めた。この三城は死守するとの指示を兵の末端に至るまで徹底して伝えた。

 敢然として籠城すれば、三か月は落城しない自信が、程立にはある。呂布軍は野戦にめっぽう強いが、攻城戦はそれほどでもないと見ている。


 果たして、呂布は攻めあぐねた。彼の誇る騎兵隊は、城壁を乗り越えることはできない。

 程立軍が守る三城は、腰砕けの兵が守っていた他の城とはものがちがい、頑強だった。

 陳宮は、雲梯や衝車などの本格的な攻城兵器までは用意していなかった。


 曹操は徐州東海郡で停滞していた。

 急遽、兗州東郡へ戻らねばならない。

 彼が率いる主力軍が救援しなければ、三城も遠からず陥落するのである。


 進軍よりも退却の方がむずかしい。

 曹操は殿軍を、曹仁に任せた。彼は徐州軍との戦いで、別動隊を率いて戦果をあげている。名将である。

 劉備軍に激しく攻められ、曹仁は血みどろの撤退戦をした。

 五千の兵を指揮して戦い、ときを稼ぎ、ついにほぼ全滅するに至った。曹仁が東郡に戻ったとき、従っていた兵はわずか二十人であった。


 曹操軍主力は東海郡から去り、琅邪郡、兗州泰山郡、済北国を経由して、東郡へ舞い戻った。

 泰山郡と済北国の将兵は、鳴りをひそめて曹操軍が通り過ぎるのを見守った。

 曹操と呂布、どちらが勝つかわからない。


 程立と陳宮の知恵比べは、前者が勝利したと言える。

 曹操が帰着したとき、三城はまだ城門を破られていなかった。

 殊勲者は程立であると、群臣が一致して認めた。


 曹操は程立の太陽の夢の話を知っていた。彼は、自分が太陽であると臆面もなく信じることができた。

「そなたはわが腹心となる人物である。名を改め、日を加えて、程昱と名乗れ」

 日とはむろん太陽である。太陽を立てる人物。程立は程昱となり、歴史に名を残すことになる。


 ここで、曹操について考察を加えておきたい。

 徐州大虐殺のときとその前後で、人が変わったようである。

 曹操は合理的思考をする人間だが、族滅されて気が狂った。

 彼が洛陽北部尉や騎都尉なら、一部隊が血迷うだけで済んだだろうが、兗州牧だったので、州全体を狂わせてしまった。

 陳宮や張邈は反逆した。縁の薄い郡太守や県令も裏切った。股肱の臣が残っただけでもよしとしなければならないほどの愚行を、曹操はした。

 陳宮は呂布を引き込むという大技を決め、曹操は滅びてもおかしくないほどの大ピンチに陥った。

 反逆者が出て、曹操の脳天に衝撃が走り、正気に戻ったのであろう。以降は、理性に基づいて行動した。

 程昱という希代の策士が命を張ってくれたことは、曹操にとって僥倖だった。

 大虐殺は謎の愚行であったが、一時的な狂気にかられたものであり、言わば魔が差した行為であった、としか考えられない。


 曹操は青州兵を中核とした大軍団を有している。

 呂布軍はいったん濮陽城に退き、籠城した。

 曹軍と呂軍は濮陽で対峙した。


 194年秋、兗州で蝗が大発生する。

 濮陽が戦場になっている頃、両軍を食糧難が襲った。

 戦いは我慢比べの様相を呈した。

 食糧をなんとか調達し、食いつないで、兵力を維持した方が勝つ。

 曹操軍は蝗を甘辛く煮て食べた。荀彧の提案であった。


 この頃、徐州では陶謙が病気になった。日に日に重くなっている。

 彼は麋竺を呼び、州を劉備に譲ると遺言して亡くなった。

 麋竺は劉備を招聘し、徐州牧に就任するよう要請した。劉備は断ろうとした。

「陶謙殿には、ご子息がいます。私などが出る幕ではありません」

「曹操が徐州を狙っています。州を守れるのは、あなたしかおりません」

「私は無力です」

「いまは亡き陶謙様のご指名です。なにとぞお引き受けください。この麋竺も微力ながらお仕えいたします」

 麋竺は劉備に頼るしかないと信じ、深く頭を下げた。劉備はついに大役を受けた。


 呂布軍は東郡の原野で曹操軍と決戦を行った。

 呂布は原野戦に自信を持っていたが、曹操には騎兵対策があった。拒馬の柵を大量に製造し、それを前線に配置していたのである。

 柵の後ろに弓兵を立たせている。

 呂布の騎兵隊が弓矢で倒され、歩兵隊も勢いを失った。

 呂布と陳宮はあと一歩およばず、敗れた。張邈は戦死した。


 書き記しておくべきことがある。

 呂布軍との戦いで、夏侯惇は負傷した。左目に矢が突き刺さった。

「親からもらった体を捨てられるか」と叫び、目玉を食ったという逸話があるが、これは創作である。

 彼は盲夏侯とあだ名されたが、これを嫌がり、鏡で自分の顔を見るたびに不機嫌になっていたという。


 敗残の呂布軍は、徐州方面へ撤退し、州牧となっていた劉備を頼った。

 劉備は呂布に小沛城を与えた。

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