張繡を降し、呂布を殺し、曹操の力は拡大した。
しかし彼には、なおも敵が残っている。
南方の劉表、孫策。
東方の劉備。
そして北に最大の敵、袁紹。
公孫瓚を滅ぼした袁紹は、南征の準備をしていると考えなければならない。いつ南下してきてもおかしくはない。
西方の脅威、馬騰と韓遂に対しては、鍾繇を司隸校尉に任命して長安に派遣し、対応に当たらせている。
鍾繇は、彼らの子を人質として差し出させることに成功していた。
曹操は、荀攸、荀彧、郭嘉を呼んで、今後の方針を相談した。
「私は中原にいて、東西南北に敵がいる。これからどうすべきか、おのおのの考えを聞かせてくれ」
参謀から個別に意見を聞くこともあるが、会議を開くこともある。
密謀ならふたりきりで話す。
会議には、多様な意見を聞けるというメリットがある。三者の力量は、高いレベルで均衡している。
荀攸の意見。
「袁紹は公孫瓚を滅ぼして、行動の自由を得ました。彼には沮授や田豊といった優秀な参謀もついています。袁紹が攻めよせてくる前に、こちらから攻勢に出なければなりません」
「どう攻勢に出る?」
「許都の北、官渡水南岸の官渡に城を築き、前線基地とします。北を睨み、許都への急襲を防ぐ攻防の要となります」
荀彧が言う。
「袁紹を刺激する前に、南の脅威を取り除いておかねばなりません」
「劉表か?」
「荊州牧は軍事的に不活発で、怖れることはありません。危険なのは孫策です。殿が袁紹と戦っている間に、彼が許都を急襲すると、我らは窮地に陥ります」
「では孫策を討てと?」
「孫策と事を構えると、袁紹に対して隙を見せることになります。孫策の弱点を突くべきです」
「具体的に話せ」
「孫策は敵が多い割に警戒心が薄く、単独行動が多いのです。彼が処刑した許貢の旧臣を動かせば……」
荀彧はそこから先を話さなかったが、暗殺を示唆しているのは明らかだった。
郭嘉は別の提案をした。
「劉備が大きくなる前に、摘んでしまうべきです。徐州を攻撃なさいませ」
彼は劉備と親しく付き合っただけに、その人格的魅力が巨大な脅威になり得ると認識している。
「王忠にでもやらせるか」
郭嘉はゆるやかに首を振った。王忠は平凡な将で、劉備を倒せるほどの力量はない。だが、それを言うと、角が立つ。
「殿が行けば、すぐにけりがつくでしょう」
「私は全方位を睨んでいなければならぬ。なによりも袁紹の南下が怖ろしい」
「袁紹は腰が重い人です。まだしばらくは動きませんよ」
「王忠に劉岱をつけよう。彼らに劉備を攻撃させる」
「せめて曹仁殿か夏侯惇殿を……」
「いつ袁紹が攻めてくるかわからん。彼らはその備えに必要だ。徐州へは王忠と劉岱を派遣する。これは決定だ」
曹操はそう結論を出した。郭嘉は微妙な顔をしていた。結局は曹操が出陣することになるだろうと考えている。
「荀攸、荀彧の意見はそれぞれ卓見である。ふたりとも、行動に移せ」
郭嘉の予測は当たった。
劉備軍は徐州派遣軍を撃ち破り、王忠を負傷させ、劉岱を戦死させた。
「やはり私が行かねばならんか」
曹操が出撃したのを知ると、劉備は電光石火で北へ逃走した。
逃げ足は異様に速い人である。袁紹領へ逃げ込めば、曹操は追ってこられない。
関羽ですら、主の姿が下邳城から消えたのに、しばらく気づかなかった。
曹操は下邳城を包囲した。
関羽は劉備の逃走時間を稼ぐため、戦う決意をした。城内には一万ほど兵がいる。
「攻めつぶせ」
曹操は総攻撃を命じた。
城の守備は堅かった。五万の兵で攻めているのに、落城しない。城壁をよじ登る兵は矢で射られ、はしごは焼かれた。
「意外と手ごわいな……」
ひと揉みにできると思っていたが、甘かった。関羽は勇猛なだけでなく、堅守だった。
郭嘉が女と子どもを連れてきた。
「殿、劉備の家族です」
劉備は単騎で脱兎のごとく逃走した。彼を追っていた妻子を捕らえたのである。
女性はふたりいた。麋夫人と甘夫人。子の名は残っていない。この後、幼くして死亡した。
ちなみに、蜀漢の二代皇帝劉禅は、まだ生まれていない。
「卑怯な手を使うか……」
曹操は気が進まなかったが、さっさと戦を終わらせて、許都へ帰還したい。
「劉備の妻と子を殺されたくなかったら、投降せよと関羽に伝えよ」
関羽には城への執着はなかった。
劉備はもう逃げ延びただろうと思って、開城し、武器を持たずに、曹操の前に出た。
関羽の得物は青龍偃月刀と呼ばれ、この時期、有名になっている。重さは八十二斤だから、典韋が使っていた矛よりさらに重い。
「青龍偃月刀を持っておらぬようだが」と曹操は関羽に語りかけた。
「自分は降伏したのです。武器は捨てました」
「所持してよいぞ。私は貴公を捕虜ではなく、客人として迎えるつもりだ」
「わが主は劉備玄徳のみ。あなたに仕えることはありませんよ」
「かまわない。貴公と劉備殿の家族は客だ。許都で過ごしたまえ。不自由はさせない」
郭嘉はそのやり取りを興味深そうに見守っている。
関羽は堂々として、とても降人には見えない。曹操の方が下手に出ている。
「ではお言葉に甘えましょう」
許都で、関羽はもともと劉備が使っていた屋敷を与えられた。
上室を両夫人に使わせ、関羽は狭い部屋で起居した。
昼間は一心不乱に身体を鍛え、夜は灯火の下で春秋左氏伝を読んで過ごした。
その暮らしぶりを聞いて、曹操は感心した。
「見事な士である。やはり私の臣として欲しい」
間者の知らせで、劉備が袁紹のもとに身を寄せ、冀州魏郡の鄴県にいることがわかった。
曹操は張遼を通して、そのことを関羽に伝えた。
「劉備殿は、鄴にいるそうです」
「無事なのですね」
「そのようです。あなたも鄴へ行かれますか」
「行きたいが、曹操殿への恩を返してからにしたいと思います」
「恩を返すとは、どのように?」
関羽は青龍偃月刀を高々と掲げた。
「武人の報恩とは、武功です。自分は曹操殿の敵を倒します」
張遼は曹操に、関羽の言葉を報告した。
「まことに忠義の士である。彼をわがもとにとどめることはできぬであろう。であれば、ひと働きしてもらうか」
200年、ついに袁紹が軍を発し、南下した。
曹操は官渡で迎撃することにし、兵を動員した。関羽にも声をかけた。