袁紹の評価はむずかしい。
暗愚であったとばっさり切り捨てるわけにはいかない。
彼は一時期華北四州を制し、中国で一番勢力が大きかった。
官渡の戦いで勝利すれば、袁紹が天下を統一し、袁王朝を創始していた可能性は高い。そんな人が愚かなだけであったはずはない。
袁紹本初は汝南郡汝陽県の出身。生年は不明だが、155年生まれの曹操と同年代だと思われる。
汝南袁氏は四代に渡って三公を輩出した名門中の名門である。
袁紹は容姿端麗であった。また、性格は快活謙虚で、大勢の人から好かれた。青年時代、曹操と友達だった。
霊帝から西園八校尉のひとりに選ばれた。袁紹は中軍校尉で、曹操は典軍校尉。ふたりは出世レースの先頭争いをする間柄でもあった。
霊帝の崩御後、少帝弁の外戚として実権を握った何進のもとで、袁紹は司隷校尉に昇進した。
何進と袁紹の敵は、宦官たちだった。宦官勢力を排除するため、袁紹は董卓ら外部勢力を利用しようとした。
これは董卓専横時代を招くことになり、失敗する。
袁紹は冀州に逃亡するはめに陥った。しかし勃海郡太守になり、後に河北を制するきっかけを得たので、人間万事塞翁が馬を体現したとも言える。
なお本作では、河北は黄河以北のことで、華北は中国北部の意味で使っている。
反董卓連合軍においては、盟主の座についた。
しかしここでは、優柔不断さを露呈した。袁紹は戦力を持っていながら戦わず、汴水西岸で戦った曹操を助けなかった。陽人の戦いで董卓軍を撃ち破ったのは、孫堅であった。袁紹には手柄はなにもなかった。
連合軍は自然消滅し、群雄割拠時代に入る。
191年頃、華北で優勢だったのは、黄巾賊討伐で功が大きかった公孫瓚であった。部下の厳綱、単経、田楷を冀州、兗州、青州の刺史に勝手に任じて、その上に乗っかっていた。
朝廷から正式に任命された冀州牧は、韓馥である。彼は臆病な人で、公孫瓚を怖れ、袁紹に牧の座を譲った。
このとき、袁紹は韓馥の配下にいた有能な智将、沮授と田豊を得た。このふたりが袁紹を飛躍させるのである。
沮授の構想は雄大だった。
「冀、青、幽、并の四州を平定し、洛陽の宗廟を復興して、帝をお迎えください」
袁紹は感銘を受け、沮授を監軍に任命した。袁紹に次ぐ軍の高官で、総指揮を任せたのである。
192年、袁紹と公孫瓚は冀州の界橋で激突する。鉅鹿郡と清河国の境界を流れる清河に架けられた橋。
西の鉅鹿郡に、袁紹が率いた二万の歩兵と麴義配下の楯兵八百と強弩隊一千が陣を敷いた。
東の清河国では、公孫瓚の歩兵三万が方陣を組み、その左右で五千ずつの騎兵が突撃態勢を取った。この騎兵隊は白馬義従と呼ばれ、公孫瓚軍の主力である。
白馬義従が突進した。麴義の楯兵が抑止し、強弩が騎兵を薙ぎ払った。袁紹の歩兵が橋を渡った。
乱戦になり、袁紹の本営が白馬義従二千に襲われるという危機的局面もあった。
田豊は袁紹を避難させようとした。
ここで、袁紹は意地を見せる。
「大丈夫たる者は前に向かって討ち死にするものだ。逃げ隠れして生き延びることなどできようか」
その後、袁紹軍は優勢に立ち、押し切った。
公孫瓚は逃走した。
袁紹軍は幽州涿郡に進出した。
公孫瓚はしぶとい。涿郡故安県巨馬水において、数万の袁紹軍を撃ち破り、八千人を戦死させた。
華北における袁紹と公孫瓚の攻防は長期戦となった。
漁陽郡潞県で鮑丘の戦いが勃発し、袁紹軍が勝利した。
公孫瓚は巨大な易京城に籠もり、屯田を行い、十年雌伏できる状況を整えた。いつまででも有利な時勢を待つつもりだった。
195年、沮授は、献帝を冀州鄴県に迎えることを提言した。郭図や淳于瓊が、実権のない献帝に仕える必要はないと反対し、実現しなかった。
196年、曹操が許都に献帝を招いて勢威を増した。沮授の策の正しさが、袁紹にとって最悪の形で証明されたわけである。
田豊は、許都を襲撃し、献帝を奪い取るようたびたび進言したが、あやまちを認められない袁紹には、受け入れがたい作戦であった。
真摯で勤勉な田豊は、対公孫瓚の作戦も提案しつづけた。
易京城は冀州河間国易県の巨城である。
掘が十重、城壁も十重で、千の櫓が建っていた。
諸将は高い楼閣に住んでいた。城の中心には高さ三十メートルの楼閣があり、公孫瓚はそこにいた。
兵は城内で農作業を行い、自給自足できた。備蓄は三百万石あった。
袁紹軍は地下道を何本も掘削し、時間をかけて易京城を攻略した。
城壁をひとつふたつと破っていき、地中からじわじわ攻め込んで、最後は公孫瓚の楼閣の地下まで掘り抜いた。
彼が居住していた高楼は倒壊した。
公孫瓚は自殺した。
この勝利にも、沮授と田豊の貢献が大きかった。
四州を平定した袁紹陣営では、対曹操戦略で論争が起きた。
沮授と田豊は、曹操を侮りがたいと見て、持久戦を主張した。
郭図と審配は短期決戦派で、許都急襲を進言した。
「官渡に城が築かれています。張繡、呂布、劉備との戦いにも決着がつき、曹操には余裕があります。短期決戦の機は過ぎ去りました」
「いまこそ速攻の機会です。四州から動員できるこちらの兵力は、曹操軍を圧倒できるほど大きいのです。官渡など一気に揉みつぶし、そのまま許を急襲しましょう」
袁紹は、郭図らの急戦策に乗ることにした。威勢のいい作戦が気に入ったのか、それとも戦いに倦んで、さっさとけりをつけたくなったのか。
曹操との決戦の前に郭図が、「監軍の権力は大きすぎます」と袁紹に讒言した。どうやら郭図は、沮授を目のかたきにしているようである。
郭図を重用する袁紹には、人を見る目がないと言わざるを得ない。
沮授は都督に落とされた。袁紹軍は、沮授、郭図、淳于瓊の三都督体制となった。
速戦の準備を進める袁紹を、田豊は諫めつづけた。
「おまえの言葉は、軍の士気を損なう」と袁紹は怒り、田豊は投獄された。
曹操は諜報により、沮授の軍権が落ち、田豊が牢に入ったことを知った。
「袁紹は自らを押しあげてくれた者を捨てようとしている」と荀攸、荀彧に向かって言った。
官渡城を築城した荀攸は、袁紹との決戦に軍師として従軍することが決まっている。
荀彧は許都の留守を預かることになっている。彼は孫策暗殺作戦を遂行中であった。