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 第29話 趙雲子龍

 白馬の戦いで敗れ、顔良を失った袁紹は不機嫌になった。

 彼はいらだちを初戦の指揮官、郭図にぶつけた。

「曹操に鉄槌を下し、一撃で葬り去るのではなかったのか」

「関羽が偽りの降伏をし、顔良殿をだまし討ちにしたのが悪いのです。劉備殿、あなたは曹操に通じているのではないか」

 郭図は責任転嫁をした。讒言は得意技。

「関羽は私の義弟ですが、いまは連絡を取り合っていません。曹操とはなおさらです。私は徐州を彼に奪われたのですよ」

「わしが顔良の仇を討つ。劉備殿、文句はあるまいな」と文醜が言った。彼は顔良の親友であった。

「はあ……」

 劉備はあいまいな笑みを浮かべた。文醜程度の男に、関羽が討てるはずがないと思っている。


「仇討ちなどと言っている場合ではありません。これは個人の争いではないのですぞ。大軍を有効活用し、敵軍を撃ちましょう」

 沮授は真っ当な意見を言ったが、それにも噛みつくのが郭図という男である。

「文醜殿の鋭意をくじく発言、よくありませんな。文醜殿には、怒りの気持ちを敵にぶつけてもらうべきです。それと、戦犯にも等しい劉備殿に、汚名をそそぐ機会を与えてやりましょう。文醜殿と劉備殿を前線へ」

 劉備は迷惑だと思ったが、ここで拒否しては、袁紹陣営で窮地に立つのは目に見えている。

「行きましょう」と即答した。内心には不快があるが、それを表面に出すほど愚かではない。

「個別に隊を送っては、敗戦を重ねるだけです。戦うなら、全軍で渡河し、大兵力で圧倒しましょう」と沮授は懸命に言った。

 袁紹は聞いていない。

「文醜、劉備殿、戦え」と命じた。 

 沮授は猛烈な腹痛を感じた。ストレス性胃炎になっていたのかもしれない。


「出撃することになった。文醜殿とともに対岸へ渡る」

 劉備は彼の陣に戻ってきて、淡々と言った。

 いま彼のもとにいる家臣は孫乾と簡雍で、他の者とは徐州脱出後、連絡が取れていない。

 関羽と張飛がいないのは不安要素だが、このとき陣内に趙雲がいた。


 趙雲子龍は168年、冀州常山国真定県生まれ。「常山の趙子龍」とは彼のお決まりの名乗りである。

 彼はかつて公孫瓚の配下にいた。

 黄巾賊討伐の際に劉備と知り合っている。

 劉備には、徳の将軍という評判と鷹揚とした雰囲気があり、正義の戦いをしたいと思っている者を強烈に惹きつける引力がある。

 趙雲も惹かれたが、そのときは左右に関羽と張飛がべったりとついていて、つい遠慮した。


 公孫瓚滅亡後、趙雲は袁紹軍に組み込まれた。降兵なので不遇である。超人的な武力を持っているのに、小隊を率いる程度の仕事しか任されていない。

 劉備の姿を鄴で見かけて、心の中で狂喜した。配置換えを希望し、客将のもとへ行った。

 関羽と張飛がいなかったのが、趙雲にとっての好運であった。劉備も再会を喜び、趙雲を歓待した。同じ天幕で眠るほどの付き合いをした。豪傑を可愛がるのは、劉備の特技である。勇者も子犬のようになってしまう。


 趙雲は槍の達人。

「おれはこんな槍を持っているんだが、使いこなせねえ。子龍にやるよ」 

 長さ九尺の剛槍、涯角槍を、劉備は趙雲に手渡した。三国志における一尺は、約二十三センチである。

 趙雲が握ると、重さ、長さともにしっくりきた。

「殿……」

 喜びを口にしようとしたが、うれし涙が出てきて、言葉が途切れた。


 曹操軍の陣地が、白馬から延津へ動いた。

 荀攸が仕掛けた誘いである。

 移動中がチャンスと見て、文醜は急いで出陣した。当然、劉備隊もつづいた。

 黄河南岸で、輜重隊が遅れて、曹操の本隊を追っていた。その歩みはのろい。

 文醜は引き寄せられた。


「見え見えの罠じゃねえか……」

 劉備は呆れた。

 伏兵が現れて、文醜隊を取り囲み、殲滅にかかった。

「ちくしょう、見殺しにはできねえ」

 劉備隊は救出戦を行った。


 伏兵はかなりの大軍で、楽進と于禁が指揮していた。

 曹操の中軍も反転してきて、総攻撃の様相を呈した。

 趙雲は果敢に突撃し、突出していた楽進と戦った。その剣を涯角槍でパキンと折った。

「え?」

 短剣ほどの長さになってしまった武器を見て、楽進は呆然とした。安い品ではない。

 趙雲はもう別の兵に長槍を向けていた。涯角槍を突き、振り、活き活きとうれしそうに戦っている。敵の目からは、戦闘狂にしか見えない。

 笑顔で血の雨を降らす身長八尺の巨漢を、于禁も不気味に思った。


 文醜隊は全滅をまぬがれたが、指揮官は戦死した。

 劉備は惨憺たる有り様の敗軍を船に収容し、北岸に逃れた。

 袁紹は今回は怒らず、「よく戦ってくれた」と劉備に声をかけた。

 敗戦がつづいたせいか、華北四州の覇者の目は落ちくぼみ、隈ができて、頬は削げていた。

 あれ、いつの間にかずいぶんと老け込んだな、と劉備は思った。


「だが、なぜ負けた?」

 袁紹は、じっとりとした声でなじった。

「すみません」

「曹操などに、なぜ負ける?」

「はあ、けっこう手ごわいですよ、あの人」

「そうなのか? 公孫瓚よりも?」

「ああ、たぶん公孫瓚殿より強いですね」

「公孫瓚より強い? あの軽薄な曹操が?」

 袁紹の脳裡には、不良青年時代の曹操の姿が焼きついている。強敵とは思えず、顔良や文醜が負けたのが、不思議でならない。郭図が言うように、短期決戦で簡単に倒せると信じていた。

 華北の総帥の顔はやつれ、微かに震えている。

 劉備は、早めに袁紹軍から離脱しようと考え始めた。


 劉備が天幕に帰ると、趙雲が涯角槍を胸にひしと抱いて、話しかけてきた。

「殿、次の戦いはいつですか? この槍が血を求めております」

 劉備はちょっと引いた。 

 こいつも一種の狂人だなあ。

「次がいつかはわからんが、おれは一生戦いから逃れられねえ。曹操に降る気はねえからな。ずっと戦いがつづくだろうよ」

 無意識であったが、彼の言葉は袁紹の敗北を予言していた。

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