おれは曹操に勝てるのか。
郭図の策を用いたら、顔良と文醜が死んだ。無能なのではないか。
沮授の意見を聞いた方がよいのではないか。
袁紹は惑い始めた。
軍議を招集したが、沮授が来なかった。病で臥せっているという。
「重病なのか?」
「胃腸の調子が悪いと聞いております」と許攸が答えた。
「沮授の話を聞きたい。出てこれぬのなら、会議は延期する」
郭図の顔が歪んだ。彼は沮授が嫌いである。いなくてもいいと思っている。
使者が沮授の天幕へ走った。
彼は誠実だった。意見を聞いてもらえるなら死んでもよいと思って、急いだ。
沮授の顔色が悪い。胃痛に耐えて、歯を食いしばっている。
「苦しいのか?」
袁紹が珍しくやさしい声をかけた。沮授は無理をして、笑顔をつくった。
「殿のお顔を見て、声を聞いて、痛みがおさまりました」
「おまえほどの忠臣はめったにおるまい」
袁紹が沮授を褒めると、郭図は苦々しく眉をひそめた。
「顔良と文醜が討たれた。わが軍は苦境にある。沮授、これからいかにすべきか教えてくれ」
久しぶりに袁紹の素直な言葉を聞いて、沮授は痛みを忘れた。
「二将軍を失ったのはつらいですが、いまだ兵力はこちらの方が断然大きく、悲観することはありません。曹操軍は延津に退き、白馬が空白地帯になっております。戦わずして黄河を渡ることができます。全軍を南岸へ移しなさいませ」
沮授の声には力みがなく、自然な流れが感じられて、袁紹は目の前が開けたような気がした。
「それからどうする」
「決着を急がず、じりじりと敵兵を削って、長期戦に持ち込みます」
「おお、その後は」
「敵は必ず官渡城に籠もります。包囲して、兵糧攻めをしてやればよいのです。官渡など、易京に比べれば、単なる砦のようなもの。籠城させれば、曹操を生け捕ったも同然です」
袁紹は愁眉を開いた。
「そのようにするであろう。沮授、休んでよいぞ。郭図、淳于瓊、いまの言葉のとおり進めよ」
郭図はその場ではうなずいたが、天幕から出ると、地面につばを吐いた。
荀攸は長期戦を狙い、袁紹軍の兵力を漸減させる戦略を立てたが、沮授が同じ作戦で来るとなると、形勢は逆転する。
削り合いになると、困るのは兵力が少ない曹操軍なのである。
袁紹軍は悠々と白馬に上陸し、全軍が大河を渡ってから、延津へ進んだ。
曹操は戦わずに原武へ退いた。
原武で曹操は魚鱗の陣を敷いた。袁紹は鶴翼に陣を開いて包囲しようとした。
「まともに戦ってはなりません」
荀攸の進言に従い、曹操は会戦を避け、さらに陽武まで下がった。
袁紹軍が堂々と追う。
曹操は伏兵をひそませていたが、敵の先鋒、張郃に簡単に打ち払われた。
沮授の作戦で動いている袁紹軍は強い。
曹操は陽武も捨て、ついに官渡城まで撤退した。
この時代の城壁は、たいてい土でできている。
黄土高原の土は、シルトと呼ばれる粒の小さなもので、現代でも建材として使われている。
強く突き固める版築工法によって、立派な城壁を築くことができる。
石城を見慣れている者には、土城は脆いと感じられるだろうが、古代には火砲がないので、強度は十分なのだ。
官渡城も土城である。
城を包囲した頃、沮授は無理がたたって血を吐き、前線に立てなくなった。
郭図が軍議で主導権を握り、またしても速戦を主張した。
沮授の反対を行くのが郭図の道である。袁紹は自分の意見がないだけに、強く主張されると、拒否することができない。
強引な力攻めは、荀攸の思う壺。袁紹軍の総攻撃を、官渡城ははね返した。
袁紹は焦った。久しぶりに自分の頭で真剣に考え、易京城の攻撃を思い出した。
「土山と櫓を築け」と命令した。
高所から矢を射る戦法は、有効だった。城兵を倒すことができた。
「発石車を使いましょう」
荀攸が提案し、曹操軍は投石で対抗。櫓を砕き、土山の兵を殺した。
袁紹はお家芸のようになっている地下道掘削を試みた。
曹操は塹壕を掘って地下戦闘を行い、撃退した。
官渡の戦いは、郭図の意に反し、自然と持久戦になった。
兵糧が減っていく。袁紹は苦しんだが、曹操はそれ以上につらかった。
戦闘は官渡以外にも飛び火した。豫州汝南郡で劉辟が乱を起こした。
袁紹は劉備を派遣して、反乱を支援させた。曹操は平定のために、曹仁の騎兵隊を送った。
劉備は戦っては逃げ、逃げては戦い、しぶとく転戦した。豫州で張飛や麋竺、曹操軍から離れた関羽とも合流し、容易ならぬ勢力となった。曹仁は官渡へ帰れなくなり、劉備と激闘をくり返した。
曹仁には、たびたび別動隊を率いた経験がある。指示なしで戦える名将。曹仁でなければ、関羽、張飛、趙雲を擁する劉備軍に敗れていたかもしれない。
籠城は気持ちが萎える。曹操は許都へ退却することを考え、荀彧に手紙を出した。
許都へ引き、袁紹軍をおびき寄せ、一挙に滅ぼしたい。
兵糧も不足している。
許で決戦すべきと思うが、どうか。
荀彧は反対した。
皇帝の御所を戦場にすべきではありません。
殿が兵糧で悩んでいるとき、敵も同様に苦しんでいます。
袁紹を叩くのはいまです。
官渡までわざわざやられに来てくれているのです。
殿があきらめなければ、勝つことができます。
袁紹陣営には内紛があります。必ず勝利の機会が来ます。
返書を携え、夏侯淵が兵糧を運んできた。
彼は袁紹軍の包囲網を突破し、何度も官渡へ食糧を運搬し、城兵の命をつないでいる。
荀彧の予測どおり、許攸が投降してきて、重大な情報をもたらした。