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第30話 官渡の戦い

 おれは曹操に勝てるのか。

 郭図の策を用いたら、顔良と文醜が死んだ。無能なのではないか。

 沮授の意見を聞いた方がよいのではないか。

 袁紹は惑い始めた。


 軍議を招集したが、沮授が来なかった。病で臥せっているという。

「重病なのか?」

「胃腸の調子が悪いと聞いております」と許攸が答えた。

「沮授の話を聞きたい。出てこれぬのなら、会議は延期する」

 郭図の顔が歪んだ。彼は沮授が嫌いである。いなくてもいいと思っている。

 使者が沮授の天幕へ走った。

 彼は誠実だった。意見を聞いてもらえるなら死んでもよいと思って、急いだ。


 沮授の顔色が悪い。胃痛に耐えて、歯を食いしばっている。

「苦しいのか?」

 袁紹が珍しくやさしい声をかけた。沮授は無理をして、笑顔をつくった。

「殿のお顔を見て、声を聞いて、痛みがおさまりました」

「おまえほどの忠臣はめったにおるまい」

 袁紹が沮授を褒めると、郭図は苦々しく眉をひそめた。


「顔良と文醜が討たれた。わが軍は苦境にある。沮授、これからいかにすべきか教えてくれ」

 久しぶりに袁紹の素直な言葉を聞いて、沮授は痛みを忘れた。

「二将軍を失ったのはつらいですが、いまだ兵力はこちらの方が断然大きく、悲観することはありません。曹操軍は延津に退き、白馬が空白地帯になっております。戦わずして黄河を渡ることができます。全軍を南岸へ移しなさいませ」

 沮授の声には力みがなく、自然な流れが感じられて、袁紹は目の前が開けたような気がした。

「それからどうする」

「決着を急がず、じりじりと敵兵を削って、長期戦に持ち込みます」

「おお、その後は」

「敵は必ず官渡城に籠もります。包囲して、兵糧攻めをしてやればよいのです。官渡など、易京に比べれば、単なる砦のようなもの。籠城させれば、曹操を生け捕ったも同然です」

 袁紹は愁眉を開いた。

「そのようにするであろう。沮授、休んでよいぞ。郭図、淳于瓊、いまの言葉のとおり進めよ」

 郭図はその場ではうなずいたが、天幕から出ると、地面につばを吐いた。


 荀攸は長期戦を狙い、袁紹軍の兵力を漸減させる戦略を立てたが、沮授が同じ作戦で来るとなると、形勢は逆転する。

 削り合いになると、困るのは兵力が少ない曹操軍なのである。

 袁紹軍は悠々と白馬に上陸し、全軍が大河を渡ってから、延津へ進んだ。

 曹操は戦わずに原武へ退いた。


 原武で曹操は魚鱗の陣を敷いた。袁紹は鶴翼に陣を開いて包囲しようとした。

「まともに戦ってはなりません」

 荀攸の進言に従い、曹操は会戦を避け、さらに陽武まで下がった。

 袁紹軍が堂々と追う。

 曹操は伏兵をひそませていたが、敵の先鋒、張郃に簡単に打ち払われた。

 沮授の作戦で動いている袁紹軍は強い。

 曹操は陽武も捨て、ついに官渡城まで撤退した。


 この時代の城壁は、たいてい土でできている。

 黄土高原の土は、シルトと呼ばれる粒の小さなもので、現代でも建材として使われている。

 強く突き固める版築工法によって、立派な城壁を築くことができる。

 石城を見慣れている者には、土城は脆いと感じられるだろうが、古代には火砲がないので、強度は十分なのだ。

 官渡城も土城である。


 城を包囲した頃、沮授は無理がたたって血を吐き、前線に立てなくなった。

 郭図が軍議で主導権を握り、またしても速戦を主張した。

 沮授の反対を行くのが郭図の道である。袁紹は自分の意見がないだけに、強く主張されると、拒否することができない。

 強引な力攻めは、荀攸の思う壺。袁紹軍の総攻撃を、官渡城ははね返した。


 袁紹は焦った。久しぶりに自分の頭で真剣に考え、易京城の攻撃を思い出した。

「土山と櫓を築け」と命令した。

 高所から矢を射る戦法は、有効だった。城兵を倒すことができた。

「発石車を使いましょう」

 荀攸が提案し、曹操軍は投石で対抗。櫓を砕き、土山の兵を殺した。

 袁紹はお家芸のようになっている地下道掘削を試みた。

 曹操は塹壕を掘って地下戦闘を行い、撃退した。


 官渡の戦いは、郭図の意に反し、自然と持久戦になった。

 兵糧が減っていく。袁紹は苦しんだが、曹操はそれ以上につらかった。


 戦闘は官渡以外にも飛び火した。豫州汝南郡で劉辟が乱を起こした。

 袁紹は劉備を派遣して、反乱を支援させた。曹操は平定のために、曹仁の騎兵隊を送った。

 劉備は戦っては逃げ、逃げては戦い、しぶとく転戦した。豫州で張飛や麋竺、曹操軍から離れた関羽とも合流し、容易ならぬ勢力となった。曹仁は官渡へ帰れなくなり、劉備と激闘をくり返した。

 曹仁には、たびたび別動隊を率いた経験がある。指示なしで戦える名将。曹仁でなければ、関羽、張飛、趙雲を擁する劉備軍に敗れていたかもしれない。


 籠城は気持ちが萎える。曹操は許都へ退却することを考え、荀彧に手紙を出した。


 許都へ引き、袁紹軍をおびき寄せ、一挙に滅ぼしたい。

 兵糧も不足している。

 許で決戦すべきと思うが、どうか。


 荀彧は反対した。


 皇帝の御所を戦場にすべきではありません。

 殿が兵糧で悩んでいるとき、敵も同様に苦しんでいます。

 袁紹を叩くのはいまです。

 官渡までわざわざやられに来てくれているのです。

 殿があきらめなければ、勝つことができます。

 袁紹陣営には内紛があります。必ず勝利の機会が来ます。


 返書を携え、夏侯淵が兵糧を運んできた。

 彼は袁紹軍の包囲網を突破し、何度も官渡へ食糧を運搬し、城兵の命をつないでいる。

 荀彧の予測どおり、許攸が投降してきて、重大な情報をもたらした。 

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