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第31話 烏巣の戦い

 許攸は金銭欲が強いなどの不評があるが、参謀としては優秀だった。

 官渡戦線の膠着を打開するため、軽騎兵による許都急襲を献策した。それが成功すると、曹操は一気に苦境に陥っただろうが、例によって郭図が反対し、実現しなかった。

 袁紹陣営には人材が少なくないのに、郭図がことごとくつぶしている。癌と言うしかない。

 この後、許攸の家族が罪を犯し、審配に逮捕された。

 審配は郭図の子分のような男である。冤罪であったかもしれない。郭図一味は、戦争の最中なのに、政敵の足を引っ張るのに夢中。

 許攸は郭図を重用する袁紹を見限り、曹操に投降した。


「烏巣が袁紹軍の兵糧基地です。淳于瓊が守っていますが、兵力は寡少。食糧庫を焼き払えば、袁紹は戦いを継続できなくなるでしょう」

 許攸は袁紹軍の弱点を暴露した。

 重大な情報だが、許攸の投降が偽りなら、烏巣を攻撃する隊は全滅するであろう。

 諸将は真偽に首をひねった。許攸は沮授、田豊、郭図らと並ぶ袁紹軍の有力参謀。すぐに信じるのは無理がある。

 だが、曹操と荀攸は、袁紹陣営の内紛を知っており、許攸の裏切りが不自然ではないとわかっていた。


 曹操は念のため探りを入れた。

「家族が逮捕されたと聞いたが……」

「息子が盗みをしたと言われました。濡れ衣にちがいありません。郭図や審配は、私を落としめようとしているのです」

「そうだとしても、あなたが投降したら、家族は皆殺しにされるのではないか? 罠なら、あなたは私に殺されるが、袁紹が勝ち、一族は繁栄する」

 許攸は涙を流した。

「袁紹のもとにいつづけたら、私は破滅するしかありません。司空におすがりするしか道がなかったのです……」

 荀攸が曹操に目配せした。信じてよいというサイン。

「私と楽進とで、烏巣を急襲する。許攸殿、よく来てくれた。ゆっくりと休まれるがよい」


 許攸が投降したと知って、張郃は愕然とした。

 彼は袁紹軍の若手ナンバーワンの武将で、顔良、文醜亡き後、彼と淳于瓊、高覧が戦線を支えている。

「殿、許攸殿は、烏巣がわが軍の兵站基地であると曹操に伝えたにちがいありません。私に淳于瓊殿の救援をお命じください」

 的確な進言である。

 しかし、またも郭図が水を差した。他人を否定するのが、癖になっている。

「曹操軍が烏巣を襲うのは、むしろわが軍にとってよい機会です。その隙に官渡を総攻撃なさいませ」

「殿、烏巣は生命線ですぞ」

 郭図と張郃が対立。張郃はイライラした。沮授、田豊、許攸をつぶしたのは、この悪玉だと確信している。敵よりも憎い。


 袁紹は決断できず、どっちつかずの指示をした。

「張郃は高覧とともに官渡城を攻撃せよ。烏巣には呂威璜を送ろう」

 呂威璜は一介の騎兵隊長である。張郃は絶望的な気持ちになった。その程度の小物では、焼け石に水。

「私に烏巣へ行かせてください。呂威璜は高覧殿の配下に」

「張郃、殿の判断はすでに下ったのだ。遅滞せず、官渡を攻撃せよ」

 郭図が追い打ちするように言い、袁紹は黙認した。

 勝てる戦いを失うと思ったが、軍人としては従うしかない。張郃は無力感に苛まれながら、出撃の準備をした。


 曹操の行動はすばやい。

 官渡城の指揮権を一時的に曹洪に預け、五千の騎兵を率いて、楽進とともに出発した。

 官渡水を渡り、濮水を越え、烏巣を奇襲した。


 淳于瓊は凡将ではない。烏巣で負けると、袁紹軍全体が立ちいかなくなるとわかっている。

 死守すると決意した。

 楽進は常に一番槍を狙う武将である。兵の先頭に立って戦う。勇猛だが、猪武者のようであり、功名に貪欲すぎるとも言える。

 このときは、楽進の性格が作戦に合致した。まっしぐらに敵陣を急襲し、激闘の末、淳于瓊を討った。

 呂威璜が到着したとき、烏巣は火の海になっていた。食糧庫はひとつ残らず炎上している。


 張郃は官渡城を陥落させるため、懸命に戦っていた。が、烏巣の敗戦を聞いたとき、脳裡でなにかが弾け、戦意を失った。

「烏巣は焼け、官渡は落ちない。高覧殿、私は曹操に降る……」

 高覧も郭図のやり方に歯噛みしていたひとりである。彼も剣を捨てた。

 張郃と高覧の投降を、曹操は大いに歓迎した。


「鄴へ帰ろう」と言い出したのは、袁紹である。彼も戦意をなくし、虚脱していた。

 病床にいた沮授が、かつてないほど激怒し、本陣へ這っていった。

「曹操をここまで追いつめておきながら、逃げるのですか!」

「烏巣が焼かれたのだ。もう戦えない……」

「食糧が乏しいのは、軍事の常で、敵も苦しいのです。兵糧はすぐに鄴から送らせればよろしい」

「しかし、もう戦術も尽きた。官渡が意外に堅いのだ」

「戦術など、頭を絞れば、いくらでも湧きます。そうだ、官渡水を堰き止めればよい。土城の弱点は、水攻めです」

「そんな大工事をする余力はありませんよ。現実を見てください」

 そう言い放ったのは、郭図である。

「おまえが……!」

 叫ぼうとしたとき、沮授の脳の血管が切れた。

 彼の命が尽きた瞬間、官渡の戦いは実質的に終わった。

 この時代最高の知性のひとつが、郭図ごときの妄言の連続で失われたのは、残念と言うしかない。


 曹操は、けっして完全無欠の英雄などではない。

 袁紹軍の退却に乗じて、殺しに殺した。

 捕虜を生き埋めにした。その数は、八万におよんだ。

 無抵抗の捕虜を坑殺する必然性は、微塵もなかった。

 徐州大虐殺に並ぶ愚行である。

 だが、袁紹軍を完膚なきまでに叩きのめし、曹操は覇王候補の最右翼となった。 

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