曹操軍は荊州南郡の襄陽城に到達した。
長らく劉表の居城であったが、後継者の劉琮が降伏し、曹操がその所有者になることが決まっている。
開城し、城門の前に劉琮と重臣たちが神妙な顔をして並んだ。
「許褚、一万の兵を率いて入城し、城兵が武装解除しているか確認せよ。武器を持っている者は斬れ」
「はい」
「荊州兵は城外へ出せ。略奪はけっしてするな。私はしばらくこの城に滞在する。安全を確認したら、戻ってこい」
曹操の命令に従い、許褚は兵を連れて城に入っていった。
しばらく後、丸腰の城兵たちが、ぞろぞろと城門から出てきた。
「賈詡、もっとも位の高い劉琮の臣と交渉せよ。最初の要求は、襄陽の兵を武装解除のまま、当分の間、城外に宿営させること。また、私が入城したら、ただちに降伏交渉を行うと伝えておけ」
「承知しました。おそらく蔡瑁殿でしょう。話してきます」
賈詡は城門の方へ行き、蔡瑁と交渉を始めた。
許褚が城から出てきた。彼の鎧は返り血で汚れていた。
「数人斬りました」
「ご苦労。私はこれから劉琮らと交渉する。警護せよ」
「はい」
曹操は幕僚たちに声をかけた。
「賈詡、荀攸、曹仁、曹純、夏侯淵、文聘は、私とともに降伏交渉の席につけ。楽進、于禁、徐晃、張遼、張郃は、兵をまとめ、荊州兵を監視せよ。李典、朱霊、牛金、臧覇は、城内を確認し、私の兵をどこに滞在させるか調べておけ」
文聘は、曹操の大幹部たちと同席することに驚いた。
「我などが、そのような重大に交渉に参加するのですか」
「荊州の事情に通じているおまえに、私の助言者となってもらいたいのだ。これも仕事である。しっかりと働け」
曹操たちは、劉表がよく会議で使っていたという広間に案内された。
そのまま降伏交渉が始まった。
荊州側の出席者は、劉琮、蔡瑁、蒯越、傅巽、韓嵩、王粲であった。彼らは曹操側に文聘がついていることに驚いた。
「文聘……」と劉琮がつぶやいた。
「この男、気に入ったので、使わせてもらう。荊州の者も、能力があれば、重用していく」
曹操の言葉は、荊州の重役たちの心を捉えた。役に立つと思われたい……。
「曹操様、私どもは降伏いたします。条件は、荊州人の命と財産を保証すること」と劉琮は言った。
「保証する。文武の官の地位は、能力相応としていく。劉琮殿は、他の州へ。荊州にふたりも主はいらぬ」
「承知しました」
「皇帝陛下から正式な荊州牧が任命されるまでの間、主はこの私である。代官を置く。州牧代理は夏侯淵、別駕従事は荀攸とする。皆の者、ふたりに従え」
異存を言う者はいなかった。降伏交渉はこれで終わった。そのまま軍議へと移行した。
「私はしばらく後、揚州へ行くつもりだ。できるだけ早く荊州水軍を譲り受けたい。水軍の長は誰だ?」
荊州の幹部たちは顔を見合わせた。蔡瑁が軽く手を挙げ、返答した。
「長らく江夏郡太守を務めていた黄祖が水軍をまとめておりましたが、今年の春、孫権軍に討たれました。いまは息子の黄射が水軍を引き継いでおります。江陵にいます」
「それは都合がよい。私は江陵を揚州攻略の拠点にしようと考えている。黄射と水軍、そのまま私の配下としたいが、かまうまいな?」
「明日にでも使者を送り、その旨を命じます」
「蔡瑁、そなたのいままでの役職は?」
「別駕従事でございます」
「では当面の間、主簿となり、夏侯淵と荀攸を助けよ。降格となるが、能力があれば、いつか引き立ててやろう」
「ありがたきしあわせ」
蔡瑁は深々と頭を下げた。
「ところで、いまの江夏郡太守は劉琮殿の兄、劉琦殿であると聞いているが、むろん私に従うのであろうな」
劉琮は沈鬱な表情になった。
「兄は劉備殿や諸葛亮殿と親しいのです。おそれ多いことですが、丞相に逆らうかもしれません」
曹操は、このところ諸葛亮という名をときどき聞くな、と思った。
「そのときは、あなたの兄であろうと討つ。荊州兵も使ってだ」
「当然のことです。私は荊州を去りますが、ここに残る者は、軍事でももちろん丞相に従います」
「よろしい。劉琮殿は、家族と従者を連れ、許都へ行きなさい。そのことは夏侯惇と荀彧に伝えておく」
劉琮はお辞儀をした。
「さて、私はできるだけ多くの船を集めようと考えている。軍船だけでなく、民船もだ。民の船は奪うのではなく、買い上げよう。その役目につきたい者はいるか」
蒯越が手を挙げた。
「わたくしにお命じください」
「蒯越か。私が集めようとしている船の数は半端ではないぞ。揚州水軍を圧倒するほどの数だ。それを二か月で、江陵に集めよ。造船所に発注し、新たな軍船も建造せよ」
「丞相は水軍の充実を、目下の最優先事項と考えておられるのでしょうか」
「そうだ。水軍が整いしだい、孫権と戦う。私の目的は、可能な限り早期の天下平定である。そのために荊州へ来た。そして揚州へ行く」
「それでは、わたくしの他に傅巽、韓嵩、王粲も……」
「お役に立つよう、邁進いたします」と王粲が言った。
「王粲、そなたの噂は聞いておる。碁石が散らばっても、元どおりにすることができるとか……」
「つまらぬ芸でお恥ずかしい限りです」
「真実なのか?」
王粲はうなずいた。
「荊州は多士済々であるようだ。実にうれしいことである」
曹操は笑顔になった。
蒯越と王粲は、丞相にその才を愛され、昇進していくことになる。