劉表は、曹操の侵略に備えて、南陽郡南部の新野県に劉備を置いた。
そして、最前線になるであろう北部の雉県には、文聘軍を駐屯させていた。
「曹操が大軍を許都に集めている。必ず攻めてくる。とうていかなわぬであろうが、われらは最後の一兵まで戦い、殿のために敵兵を減らす」
文聘はそう言って、兵の心を引き締めていた。
本気で戦い、討ち死にする覚悟であった。
が、劉琮の伝令が持ってきた命令は、その意気をあっけなくくじいた。
「降伏する。雉県軍はけっして曹操と戦うことなく、道を開けろ」
荊州が一戦もせずに降るということが信じられず、文聘は奥歯が砕けるほど噛みしめた。
劉表様なら戦っただろう。劉琮様は蔡瑁らにたばかられたのだ……。
曹操軍が雉県に至ったとき、文聘は城門を開け、全兵士に剣を捨てさせ、城壁の前に立たせた。
「曹操には逆らえぬ。だが、劉琮様が曹操とまみえ、頭を下げるまで、われらは名誉ある荊州軍である。曹操軍を睨み据え、意地を見せよ」
文聘の命令で全兵士が、華北と中原の兵士が通り過ぎるのを怒りの形相で見送った。
もし曹操が気まぐれを起こし、「あれらを殺せ」と言えば、全滅させられるのは明白だったが、ひとりも逃げ出さず、立ちつづけていた。
文聘仲業は南陽郡宛県出身。生年は不明だが、曹叡の代まで魏に仕えたので、この頃、若き将であったと思われる。
劉表から北の守りを任されたのがうれしくてたまらず、一途に兵を鍛え、荊州を守るのだと思いつづけてきた。
敵兵に故郷を踏み荒らされるのが我慢ならなかった。
曹操は雉県から去った後も、その地の将兵のことが気になっていた。
南陽郡を南下し、西鄂県を通り、郡役場のある宛県に至った。
これまでのところ、どの県の軍も曹操軍に怯えるばかりで、雉県軍は例外的な存在だった。
宛県で宿営しているとき、曹操は新野県にいた劉備軍が南へ向かったという情報を聞いた。
「逃げたということは、降伏する気はないのですね」と賈詡が言った。
「劉備……わからぬやつだ。この強大な私に、まだ抵抗する気なのか……」
「追撃しますか」
「騎兵五千で追え。曹純の隊がよい」
賈詡がうなずき、指示を伝えるために、天幕を出ようとした。
「待て。荊州の地理に詳しい者をつけたい」
「誰がよいでしょうか」
「急いで雉県軍の将を呼べ」
文聘は、曹操の前に引き出されたとき、殺されるのだろうと思った。反抗的な態度が気に障ったのであろう……。
「名を言え」
「文聘仲業」
「文聘、なぜわれらをあのような目で見送った? もう劉琮殿は降伏しているのだぞ」
「我は劉表様の臣。荊州を守れなかったことが情けなく、心では負けなかったと天にいる主にお見せしたかったのです」
文聘は涙を流しながら言った。
曹操は彼の言葉に真心を感じた。
「あっぱれな心がけだ。だが仲業、おまえはいつまでも死んでしまった主に仕える気なのか」
文聘は泣きながらうつむき、答えることができなかった。
「まだ若い。新たな主に忠誠を誓い、力の限り生きてみる気はないか」
「それは……」
「天下を平和にするため、おまえのような若者の力が必要だ。私に仕えよ」
「我の力が役に立つのなら、使ってください」
「私は人使いが荒い。それでもよいか」
若き将はうなずいた。
「では、早速働いてもらおう。馬には乗れるな?」
「もちろん」
「劉備軍が南へ逃げている。行き先はおそらく江夏郡であろう。曹純という将に追撃させる。仲業、曹純を助けよ」
その頃、劉備は新野を出て、襄陽へ向かっていた。
劉琮に会い、翻意させて、ともに曹操と戦いたいと考えていた。
だが、それが望み薄であろうということはわかっている。蔡瑁の一味が、薄汚い陰謀で劉琦を後継者からはずした。襄陽城では、蔡瑁らが実権を握っているにちがいない。そして荊州は、まもなく曹操のものになってしまうのだ。
耳の早い諸葛亮が、追撃を受けているのを知った。
諸葛亮孔明は、劉備から三顧の礼で迎えられた新進気鋭の軍師である。
「殿、騎兵隊がわれらを追っています」
「しょうがねえ、襄陽城へ寄り道するのはやめだ。まっしぐらに逃げるぞ、孔明」
「関羽殿、計画どおり襄陽から水路で漢津へ行き、船を集めておいてください。われらは陸路で行きます」
「おう。わしは先行させてもらう。兄者、漢津で会いましょうぞ」
「頼むぜ、関羽さん」
関羽は手勢を率いて馬を急がせ、地平線に消えた。
「張飛殿、殿軍となってください。長坂橋で陣を敷き、一日でよいですから、時間を稼いでください」
「三日でもいいぜ」
「一日でよいのです。命を粗末にしないようお願いします」
「了解」
「趙雲殿、殿と私は急ぎます。麋夫人、甘夫人、阿斗様を護衛しながら、漢津へ来てください」
「お任せください」
「よろしくな、子龍」
劉備軍は最速の関羽隊、それに次ぐ劉備隊、やや遅い趙雲隊、殿軍の張飛隊にわかれた。殿軍が最大兵力である。
曹純の騎兵部隊が文聘に案内されて長坂橋に着いたとき、張飛が三千の歩兵を率いて、橋の前に陣を敷いていた。
「遅かったです。あそこにいるのは張飛益徳。この兵力で待ち構えている彼に向かうのは、死にに行くようなものです」
「馬鹿を言うな。五千の騎兵を持っていながら、あの程度の歩兵から逃げて、丞相に合わせる顔があるか」
曹純は突っ込んでいった。
張飛と彼の隊は大あばれし、曹純隊を総崩れさせた。文聘が張飛と戦い、曹純を逃がした後、自らもかろうじて退いた。顔に刀傷をつけられていた。
張飛は騎兵隊を撃退してから一日待ち、橋を焼いて撤退した。
曹純は、曹操に長坂の戦いを復命した。
「張飛に蹴散らされ、文聘に命を救われました。敗北は私の責任です。私を打ち首にし、後任を文聘になさいますよう」
「気にするな。劉備には過ぎたる将が三人いる。関羽、張飛、趙雲だ。あやつらは許褚ほども強い。負けても仕方がない」
曹純の後ろで申し訳なさそうにしている文聘を見て、よい者を拾った、と曹操は思い、上機嫌だった。