呆然としたまま、俺は凛の手のひらが頭を撫でる感触を受け入れてしまっていた。
「よかったね、れーちゃん」
凛の声は優しく、まるで本当に俺の変化を祝福しているようだった。
けれど、その言葉の意味が、俺の思考にじわじわと染み込んでいく。
「……よかった、だと……?」
そう呟くと、凛は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。だって、ちゃんと進んでるから」
俺は言葉を失う。
「進んでいる」。
まるで、俺が望んだかのような表現に、怒りよりも恐怖が先に来た。
「……違う……そんなの、違う!」
俺は強く否定した。
でも、喉の奥に絡みついた凛の匂いが、それを許さなかった。
「違う? じゃあ、どうして僕のフェロモンを感じるの?」
「それは……!」
言い返そうとするのに、何も出てこない。
考えれば考えるほど、凛の言葉が真実のように思えてしまう。
α同士なら、フェロモンを感じることはない。
それが、当たり前のはずだった。
なのに――
今、この密室の空気が妙に重く感じるのは、凛のフェロモンのせいじゃないのか?
昨日までは、こんな風に意識したことなんてなかったのに?
「ねえ、れーちゃん」
凛の指先が、俺の顎を軽く持ち上げた。
「僕の匂い、嫌?」
「……っ……」
本当なら、嫌だと答えなければいけない。
だけど、言葉が喉の奥で詰まる。
息を吸い込むたびに、胸の奥がじんわりと温まっていくような錯覚に陥る。
「……嫌……な、わけ……」
「ないでしょ?」
囁くような声に、心臓が跳ねる。
違う、これは違う。
俺は、俺は……!
「α同士なら、こんな風にはならないんだよ」
静かに告げられたその言葉に、俺の全身が凍りついた。
「じゃあ、れーちゃん。僕がもっと近づいたら、どうなると思う?」
「……何……?」
「試してみようか」
そう言った瞬間、凛の手が俺の首筋に触れる。
「っ……!!」
そこに、ゆっくりと唇が寄せられ――
「ほら、怖がらないで。僕はれーちゃんの“番”なんだから」
「は……?」
「れーちゃんの番は、僕しかいないんだよ」
凛が、淡々とした口調で告げた。
まるで、それが最初から決まっていた運命であるかのように。
「待てよ……俺の番……? そんなの、誰が決めた……!」
「僕が決めたよ」
「っ……ふざけんな!」
「ふざけてないよ」
凛は微笑んだまま、そっと俺の頬を撫でた。
「れーちゃんは、僕が作ったΩだから」
「……は?」
「だから、れーちゃんの番は、僕しかいないの」
「待て……そんな理屈、どこにある……!」
「あるよ。ほら、もう僕のフェロモンに逆らえなくなってるでしょ?」
そう言われて、俺はようやく気づく。
いつの間にか、俺の呼吸は浅くなり、凛の匂いを吸い込むたびに心臓が妙に落ち着かなくなっていた。
寒気がするのに、熱がこもるような違和感。
この感覚、何かに似ている。
(……まさか……)
「れーちゃん、気づいてる?」
凛の指が、俺の首筋を優しくなぞる。
「僕が、こうやって近づいても、君はもう逃げようとしない」
「……!」
「むしろ――この距離、嫌じゃないよね?」
「違う! 俺は、そんな……っ!」
「でも、さっきからずっと吸い込んでるよね。僕の匂い」
「っ……!」
指摘されて、初めて自覚する。
俺は無意識のうちに、深く息を吸い込んでいた。
まるで、それを求めるかのように。
「れーちゃん。僕のフェロモンが、君にとって一番気持ちいいものになるように、調整してるんだよ」
「調整……?」
「そう。僕が作ったΩなんだから、僕に一番馴染むように」
「……そんなの……!!」
「そんなの、じゃないよ」
凛は俺の髪を優しく撫でた。
「だって、もうこうしてるだけで、落ち着くでしょ?」
「……っ……」
言い返そうとしたのに、なぜか喉が詰まった。
確かに――この距離で、凛の匂いを感じていると、少しだけ楽になる気がする。
けれど、それを認めてしまったら、もう。
「僕の言葉、すごく聞きやすくなってるよね?」
「……何……?」
「αの時は、そんなことなかったでしょ?」
確かに、凛の声が妙に耳に馴染む。
まるで、心地よく響くように設計された音のように。
「Ωってね、番の声が一番よく聞こえるんだよ」
「……!」
「れーちゃんの番は、僕だから」
俺は、ただ唇を噛みしめるしかなかった。
認めたくない。
こんなもの、絶対に違う。
けど――
(……違うって、言えるか?)
自分の身体が、もう。
誤魔化せないくらいに、変わってきているのに。