「……れーちゃん、ちょっと休もうか」
凛の声が、どこか遠くに響いた。
休む?そんなの、許されるのか?
そう思った瞬間、じわりと瞼が重くなる。
(……眠気……?)
こんな状況で眠れるわけが――
けど、考えようとするたびに意識が揺らいでいく。
「れーちゃん、水飲んで」
「……いらない……」
「でも、飲まないともっと辛くなるよ?」
(……っ……)
喉の奥がひりつくような感覚。
そんなはずはないのに、言われると余計に乾いている気がしてくる。
(……気のせいだ……)
そう思って唇を噛んだ。
でも、次の瞬間、凛がグラスをそっと俺の口元に押し当てる。
「ほら、少しだけ」
拒否する間もなく、冷たい水が舌先に触れた。
その瞬間、耐えられなくなった。
(……どうして、全部が凜の言うとおりに……)
喉が勝手に動く。
冷たさが、熱のこもった身体の中へと流れ込む。
「うん、いい子」
(……やめろ……)
そう言いたいのに、もう声を出す気力もなかった。
「少し休んでいいよ」
凛の手が、そっと俺の髪を撫でる。
「……っ……」
抵抗しようとしたが、思考がまとまらない。
瞼が重い。
「れーちゃん、大丈夫。僕がいるから」
(……何が、大丈夫……)
でも、身体は――もう、抗えなかった。
次第に眠りが深くなり、俺の視界が沈んでいく。
夢を見ていた気がする。
幼い頃の記憶か、それとも、別の何かだったのか――
思い出そうとした瞬間、強烈な違和感に襲われた。
(……何だ……?)
ぼんやりとした意識の中で、妙な感覚が腹の奥を這う。
(……熱い……?)
身体の中心がじくじくと疼く。
鈍い違和感が、じわじわと広がっていく。
(……何だ、これ……いやだ、気持ち悪い……)
少し動こうとすると、全身が妙に重い。
そして、無意識に息を吸った瞬間――
「っ……!」
凛の匂いが、鼻腔を満たした。
(……凜……!)
目を開けると、それがずっと濃くなっている気がする。
そんなはずはないのに、空気がやけに甘く感じる。
「……起きた?」
優しく響く声。
眠っていたのだろうか、俺は。
体感的にはほんの一瞬のようだったのに。
「……っ……」
時間の感覚も、身体の感覚も、全部が俺を無視しているようで気持ち悪かった。
けれどそれを凜に告げれず、俺は、ただ唇を噛む。
(……全部がおかしい……)
夢を見た記憶はあるのに、内容がまるで思い出せない。
代わりに、腹の奥に鈍く広がる熱が、意識を侵食していた。
「れーちゃん、お腹空いてない?」
「いらない……」
「そっか。でも、何も食べないともっとフラフラしちゃうよ?れーちゃん、ほとんど食事が出来てないでしょう?」
「…………」
さっきも、同じやりとりをした気がする。
でも、今は――
(……確かに、力が入らない……)
眠る前よりも、少しずつ体の中から何かが抜けていく感覚。
何が抜けてるのかさっぱりと分からず、それが歯がゆくて気色悪い。
「……食べない」
そう言い切る。
けど、凛はすでに俺の返答など気にしていなかった。
「じゃあ、ゼリーにしよう」
拒否する前に、ストロー付きのゼリー飲料が差し出される。
「ほら、少しだけでも」
(……いらない、飲みたくない
そう思ったのに、俺の喉は、乾いていた。
そして――
(……いや、飲んだら……また……)
でも、もう抵抗する気力はどんどんと失われていた。
「……っ……」
俺はゆっくりと、ストローを咥えた。
(……自分が思い通りにならない……)
少しだけ。
そう思いながら、一口、また一口と喉を通る感覚。
冷たいゼリーが、胃へと落ちる。
なのに、腹の奥の熱は収まらない。
「うん、いい子」
「……っ……」
また、その言葉。
けど、もう怒る気力すら湧いてこなかった。
「飲み終わったら、次の準備しようね」
「次……?」
「うん、6回目の注射」
心臓が、一気に跳ね上がる。
「待て、待て……! もう……十分だろ……!」
「まだだよ。あと4回あるからね」
「っ……!!」
「大丈夫。れーちゃんは、もうΩになりつつあるんだから」
「違う!俺はなってない、そんな……!」
叫ぶのに、凛は動じない。
「本当に?」
俺の腕を掴み、軽く押さえつける。
振り払おうとするが――
(……っ……まただ……!)
力が、足りない。
昨日までなら簡単に振り払えたのに。
「ねえ、れーちゃん」
「……っ……何だよ……」
「今、僕の匂い、どう?」
「……っ……」
また、それを聞いてくる。
でも――
(さっきより、もっと……)
濃く感じる。
いや、匂い自体は変わってないはずなのに、俺の中に入り込んでくるみたいに、意識が引っ張られる。
「さっきより、もっと感じるでしょ?」
「……違う……っ……!」
「僕が近づくほど、れーちゃんの身体は僕を求めるようになってるんだよ」
「求めてない!」
「本当に?」
俺の首筋に、凛の鼻先が触れる。
――チクリ。
「っ……!!!」
肌に針が刺さる感覚。
(やばい、これは――)
「ほら、あと3回」
「……っ……はぁ……っ……」
俺の呼吸が浅くなる。
動悸が、さっきよりも早い。
「ふふ、どんどん……れーちゃんが変わってる。僕のお嫁さんに」
凜の目は恍惚としていた。
俺はそれに寒気を覚える。
「……狂ってる……」
言葉が思わず零れた。
凜は俺の声に、小さく首を傾げた後に、
「とっくの昔に、ね」
ふふ、と楽し気に笑った。