呼吸が、浅い。
けれど、それは単なる過呼吸とは違った。
胸の奥が熱く、そして重くなっている。肺の中に吸い込む空気すら、どこか甘く感じる。
凛の唇が離れたというのに、まだ感触が残っていた。
唇の輪郭が、焼きついたようにじんわりと熱を持っている。
(……どうして、こんな……)
皮膚の奥、筋肉よりももっと深い場所――
まるで臓器の裏側に、小さな火種が灯っているようだった。
それは疼きながら、しかし確実に広がっていく。
「れーちゃん、大丈夫?」
凛の声が、耳に直接染み込んでくるようだ。
音というより、感情を伴った圧力のように思える。
こいつの声が優しいせいじゃない。ただ、俺が……変わってきているのだ。
(冗談じゃない……ふざけるな……っ)
自分にそう言い聞かせた。
でも、指先が少し震えていた。
冷たいわけじゃない。むしろ、身体はどこか熱い。けれど、力が入らない。
凛はベッドの脇に腰掛けたまま、じっと俺を見つめている。
その視線が、妙に気になった。いや、気にしたくなどないはずなのに。
「……なんだよ、見るな」
ようやく声が出た。それでも、掠れていた。
凛はふわりと微笑んで、目を細める。
「見るよ、可愛いから」
「……ふざけんな」
怒りの言葉を吐いたつもりだった。
でも、響かない。
言葉が空気に落ちて、そのまま濁って消えていくような、手応えのない反発。
凛の手が、もう一度、俺の額に触れた。
その温度に、妙に安堵している自分がいた。
(何で、安心してんだよ……)
それが一番怖かった。
何よりも恐ろしかったのは、拒絶ができなくなっている自分だった。
俺が俺でなくなってきている。
凜に形成される俺になってきている……。
「熱、少し上がってるかもね」
凛はそう言って、額に当てた手を滑らせ、頬へと移した。
そのまま、耳の裏をゆっくりと撫でてくる。
「……っ、やめろ……」
制止の声は震えていた。
いや、ほんの数時間前までは確かに「拒絶」だったものが、今は「抵抗」の形になってしまっている。
(ああ……やばい……やばい……)
俺の身体が、もう……知らない誰かのものみたいだ。
その事実に、絶望するには十分だった。
「れーちゃん、まだ足先が冷たい。温めてあげるね」
「触んな……」
そう言ったのに。
足首を包むように触れられた瞬間、体がまたぞくりと震えた。
嫌悪ではない、むしろ……感覚の鋭さ。
(ああ、もうだめだ……)
否応なくわかる。
これはもう、「αの身体」じゃない。
どんな言い訳を積み上げたところで、すでに崩れている。
αであれば、感じないはずの匂いが、今はわかる。
手が、指が、声が、体温が、どれも自分の奥へと響いてくる。
こんな感覚――なかったはずなのに。
凛が顔を近づける。
またキスをされるのかと身をこわばらせたが、凜はただ、俺の首元に鼻を寄せただけだった。
「……いい匂いだね」
耳元で囁かれて、心臓が跳ねる。
「やっぱり、れーちゃんの身体は僕に合ってきてる……嬉しいなぁ……」
その言葉が、妙に現実的だった。
(……もう、合ってる……?)
そう思った瞬間、また腹の奥が疼いた。
そこは、本来存在しないはずの、Ωの受容器官が目覚めつつある場所。
俺は――本当に、Ωになりかけている。
もう「なりかけている」どころじゃないのかもしれない。
次の注射が来れば、間違いなく。
「……っ……」
肩に置かれた凛の手が、重く感じられた。
その重さが、心の奥まで沈んでいく。
逃げ場なんて、最初からなかった。
そう思ってしまえば、どこか楽になりそうな気さえする。
「れーちゃん、大丈夫。全部、僕が面倒見るから」
その言葉が、呪いのように優しく響いた。
(……俺は、どこまで……奪われるんだ……)