部屋が、静かだった。
あまりにも静かで、耳鳴りがするほどだった。
凛の気配がない。
気がつけば、ベッドの隣にはもう誰もいなかった。
さっきまで確かにいたはずなのに、いつの間に。
気配が消えるだけで、空気の密度まで変わるように感じる。
(……いつ出ていった?)
体を少し起こすと、わずかにシーツが沈んだ。
重く、鈍く。
そのまま天井を見上げる。
そこにあるのは、何の飾りもない、無機質な天井板。
時計もない。窓もない。
昼か夜かも分からない。
何時間寝ていたのか、身体が勝手に諦めてしまっていた。
この部屋は、時間そのものが失われていく箱のようだった。
息を吐いた。
たったそれだけのことで、少しだけ呼吸が軽くなる。
(凛がいないだけで……こんなに、違うのか)
それが悔しかった。
けれど、同時に――少しだけ寂しいと感じている自分がいて、それがもっと恐ろしかった。
熱がこもっているはずの身体の内側を、冷たい感情が撫でていく。
それはたぶん、凛の不在による、名もない焦りだ。
凛の手が、呼吸が、匂いが……今はない。
(……俺は、何を求めてる?)
答えの出ない疑問を飲み込んで、目を閉じた。
意識がゆっくりと沈む。
それはまるで、“自分”を探しに深海へ潜っていくような感覚だった。
夢を見た。
眩しいライト。白く光るスタジオの天井。
目を細めながらも、その光を受け止めることが嬉しかった。
カメラの前で、俺は笑っていた。
無理やり作った笑顔じゃない。
自然と溢れてくる、自分の“好き”がそのまま顔に出ていた。
「いい表情!」
誰かの声が飛ぶ。
それだけで、胸の奥がふっと軽くなって。
俺は、その場に立てていることが誇らしかった。
(……俺、あの仕事、ほんとに好きだったな……)
メイク室の鏡。スタッフとのやり取り。
小さな失敗で笑われるのも、悔しくて反省するのも、ぜんぶ日常だった。
画面が切り替わる。
今度は体育館の景色。
放課後の柔らかな夕焼けが、ガラス越しに差し込んでいた。
バスケットボールの弾む音。
その匂い、音、湿った空気の感触までもが、胸に懐かしく沁みる。
床に転がって、凛と他愛もない会話をしていた。
くだらない話。笑って、水をかけ合って。
怒られても、楽しくて――それが、俺たちの“普通”だった。
(……凛……)
隣にいた凛は、今よりずっと幼くて、素直だった。
一緒に笑っていた。
肩を並べて、まるで兄弟みたいに、家族みたいに。
(どうして、こうなった……)
あの頃の俺たちは、もっと健全だった。
ただの友達。
もしかしたら、もっと早くに何か言葉にしていれば――
たとえば「好き」だとか「お前といるのが楽しい」とか。
そういう気持ちをちゃんと伝えていれば、こんな形で歪まずに済んだのかもしれない。
けど、そんな“もしも”を口にするには、もう遅すぎた。
夢の中の凛が、ふとこちらを見た。
いつもの、よく知っている笑顔だった。
それなのに――何かが、違っていた。
恐怖が、胸の奥をかすかに叩いた。
手を伸ばそうとした瞬間、世界が崩れる。
足元が割れる。
景色が反転し、重力が逆さまになる。
音が消える。
匂いも、光も、すべてが呑み込まれていく。
(……あ……)
指先に残った凛の笑顔の温もりすら、真っ黒に染まっていった。
目を覚ます。
硬い現実が、容赦なく視界に戻ってくる。
天井。ベッド。体の重さ。汗。
どれも夢よりもずっと色がなく、温度もない。
変わらないのは、部屋の空気だけ。
変わってしまったのは、俺の方だ。
夢の中で笑っていた“俺”は、確かに本物だった。
なのに、今の俺は……どこかの誰かが作り上げた、別人のようだった。
手を伸ばす。
自分の手が、自分のものじゃないように感じた。
(これは、俺の“手”か……?)
見慣れていたはずの皮膚が、微かに震えている。
その震えすら、もう自分では止められない。
凛の匂いが、まだ空気の中に残っていた。
呼吸をするたび、鼻腔の奥が熱くなる。
(違う。違う……はず……違っててほしい)
心の中で否定を重ねるたび、
確かだったものの輪郭が、にじんでいく。
「……俺は……」
ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届かない。
自分の耳にすら、届いたかどうか分からないほどかすれていた。
夢の中の“俺”は、確かにそこにいた。
堂々と、まっすぐに生きていた。
それなのに――
「……帰りたい……」
帰る場所が、まだどこかに残っている気がした。
けれどその言葉を口にした瞬間、俺は気づいてしまった。
もう――戻れないのだと。
それを、一番よく知っていたのは、誰でもない俺自身だった。