ぼんやりと目を開けたまま、どれくらい時間が経っただろう。
空腹感はあるのに、胃が拒否していた。
喉が渇いているのに、飲む気になれなかった。
乾きは、体だけじゃない。
思考も、感情も、どこかカサついて、焦点が合わなかった。
体が思うように動かない。
ただそれだけのことが、ここまで精神を削ってくるとは思っていなかった。
(食えない、飲めない……)
αだった頃なら、こんなこと一度もなかった。
疲れていようが、腹が減れば飯を食ったし、喉が乾けば自分でペットボトルを開けていた。
それが今では、指を伸ばすだけでも億劫で、
目の前にある水のコップが、まるで他人の家のもののように、遠い。
「……情け、ない……」
絞り出した声は、かすれていた。
誰にも届かない。届いたとしても、何になる。
俺の手のひらは、すでに“誰かの意思”に慣れ始めている。
ガチャリ、と静かにドアが開いた。
「起きてたんだ、れーちゃん」
凜が柔らかく笑いながら、部屋に入ってきた。
その手には、水の入ったグラスと、小さなゼリー飲料のパウチ。
その姿が現れた瞬間、呼吸が浅くなる。
皮膚が、凜の存在を先に察知したように、微かに粟立った。
「……ほら、少し飲もうか。何も入ってない水だよ」
そう言って、俺の傍に腰を下ろす。
グラスを俺の手元に差し出すが、手は伸びなかった。
というより、伸ばせなかった。
腕が重い。指先がしびれて、力の通り道が見えない。
「……無理……」
情けなくて、悔しくて、それでも口に出すしかなかった。
凜は少しだけ目を細めて、ゆっくりと息を吐いた。
「……そっか。うん、大丈夫。れーちゃんのこと、ちゃんと分かってる」
そう言って、グラスを引き、代わりに自分の口元へ持っていった。
「……ちょっとだけ、ごめんね」
そして――一口、含んで。
そのまま、俺の唇に、口づけるように流し込んだ。
「っ……!!」
一瞬、背筋が跳ねた。
けれど、吐き出す余裕もなかった。
温度を失った水が、ゆっくりと舌の奥へと滑り込んでいく。
(こいつの口から、水を――)
思考がまとまらない。
ただ、水だけが喉を伝って落ちていく。
「ん、ちゃんと飲めたね」
微笑む凜の顔が、あまりにも自然すぎて、怒りすら湧いてこなかった。
むしろ、自分の体がそれを“受け入れてしまった”ことのほうが、ずっと怖い。
(……俺の口は、もう……)
俺の意思で飲むことすら、できなくなっている。
与えられたものを受け取るだけ。
それが、こんなにも惨めで、悔しくて――でもどこか、
“心地よい”なんて。
「まだ渇いてる?」
そう言いながら、凜はもう一度、口に水を含んで――
「……やめろっ……!」
震える声で叫んだ。凜の動きが止まる。
「れーちゃん?」
「……やめろ……自分で……できる……!」
言った瞬間、腕に力を込めようとした――が、持ち上がらない。
肘が、手首が、自分の指じゃないように感じる。
「できないよ。れーちゃんの身体、今、力はいらないでしょ?」
やわらかく断言されて、俺の喉が詰まった。
(違う……そんなわけ……っ)
「でも、苦しいままよりは、ちゃんと飲んだ方が楽になるよ」
凜は、俺の唇にもう一度、水を流し込む。
抵抗は――できなかった。
それが何よりの証明だった。
喉を通っていく水が、妙に甘い。
味じゃない。
“状況”が、俺の中で意味を変えていく。
(俺は……こいつの“口”を、待ってたのか……?それとも、凜自身……?)
胸の奥がざわつく。
まるで、本能がその行為を“正しい”と受け入れようとしているみたいに。
その瞬間だった。
凜の匂いが、ふわりと強くなった。
(っ……!!)
脳が痺れるような、濃厚な香り。
空気が重くなる。
この空間そのものが、凜で満たされていくような錯覚。
「ああ……出てきたね。れーちゃんの、フェロモン」
「……は……?」
「ほら、自分でも感じるでしょ? 空気が熱い。息が重い。何もしてないのに、変なとこが疼く」
――そう、まさにそれだ。
喉が渇いていたのは、凜を“欲した”せいなのかもしれない。
身体の深部が、湿り気を帯びてうずく。
吐息は次第に乱れて、肌が敏感に凜の気配を拾っていく。
シーツの下にある下腹部の奥に、知らない熱が宿っている。
それが、ゆっくりと身体中に拡がっていくのが、分かる。
(これが、発情……? いや……まだ、始まり……?)
「次の注射を待つまでもないかも……ね」
「……やめろ……やめてくれ、凜……!」
口だけは拒絶する。
けれど、体が熱を放っていた。
もう――隠せないくらいに。