ふと、凛が立ち上がった。
「……次の注射の準備、するね」
そう言って、小さなトレイを持って部屋の奥へと向かう。
その背中を、俺はただ見ていた。
見送った、というより、動けなかった。
(……来る……)
思考が薄く濁るなかで、それだけははっきりと分かった。
次の注射――8回目。
『あと3回』
昨日の凛の言葉が、何度も頭の中を反響する。
7回目が終わって用意されているのは8回目。
俺は、何を失って、何を“得る”んだ?
Ωになって俺が得るものは……一体なんなのだろう……。
足音が戻ってくる。
冷たい金属音が、部屋の空気を切り裂くように近づいてくる。
ベッド脇に立つ凛の姿が、視界に重なる。
その手には、いつもと同じ、ペン型の注射器。
「れーちゃん、注射するね」
まるで保健室の看護師みたいな、やさしい声。
それが、逆に狂気じみて聞こえるのは、俺だけじゃないはずだ。
「……いらない……やめろ……」
喉から漏れた声はかすれて、凛に届いてすらいなかったかもしれない。
それでも俺は抗った。せめて言葉だけは、俺のものとして。
「怖いよね。でも、大丈夫」
微笑みとともに、凛が俺の腕を優しく撫でる。
その動作に、もう拒絶反応は起きなかった。
それが、何よりの敗北だった。
(触れるな……いや、触れてくれ……)
わからない。
どっちが本音なのか、自分でも判断がつかない。
「少し、冷たいよ」
そう言って、凛の手が注射器を構える。
その先端が、俺の皮膚に触れる。
細い針の感触が、ぞくりとした電流になって背筋を駆け上がる。
「っ……や、め――」
声が途切れた瞬間、チクリとした感覚。
もう、慣れてしまった。
痛みはなかった。
でも、その無痛さこそが恐怖だった。
体がこの侵入を「異常」と認識しなくなっている――その事実が。
「うん、注入完了。お疲れさま」
凛はそう言って針を抜き、優しくガーゼを当てる。
まるで、看病でもしているかのように。
その丁寧さが、余計にぞっとした。
「……っ……何……した……」
自分の声が、まるで機械のように遅れて聞こえる。
数秒の遅延が、体と心を切り離していく。
「8回目だよ。これで、れーちゃんの体はもう……僕の番を受け入れる準備ができる」
その言葉が、耳に沈む。
鼓膜ではなく、脳の芯に溶けるように流れ込んでいく。
「冗談、だろ……っ」
途切れ途切れの言葉が出る。
凛は小さく首を横に振った。
「ううん、ほんとうだよ。ね、れーちゃん……自分の体、感じてみて?」
感じたくない。
でも、分かる。
腹の奥、骨盤の内側――そこが、疼く。
昨日までの“鈍さ”ではない。
もっと明確で、直接的な熱が、そこにある。
ベッドの上で寝ているだけなのに、内臓がゆっくりと拡張していくような気配。
脈を打つたびに、熱が移動する。
奥から、奥へ。
まるで「何かを受け入れる場所」が、開いていくように。
(違う、違う、違う……!)
心の中で何度否定しても、体は従ってくれない。
呼吸が浅くなる。
目の奥がじんわりと滲む。
「れーちゃん……」
凛が、俺の耳元に顔を近づける。
その瞬間、ふわりと甘い匂いが鼻腔を満たした。
「ん……!」
喉がひくついた。
空気が、粘りついて重くなる。
思考より先に、皮膚が反応する。
熱い。
苦しい。
なのに、心地いい。
「出てるよ、れーちゃんの匂い。すごく甘くて……僕が我慢してるの分かる?」
囁かれた声に、下腹がビクリと反応する。
意識していなかった場所が、いまや凛の声ひとつで疼く。
「これが、発情だよ」
優しく、言い切られる。
そうだ――もう、否定できない。
凛の指が、俺の胸元にそっと触れる。
ただ撫でるだけのはずなのに、皮膚がぞくりと粟立った。
「れーちゃんの身体……全部、感じるようになってきてるね」
「っ……やめろ……!」
力のない拒絶。
凛はその手を離さず、ただ、静かに続ける。
「全部、僕が教えるから。れーちゃんは、ただ感じてくれればいいよ。9回目が終わったら、たくさんセックスしようね?れーちゃんが孕むまで」
それはまるで、赦しを与える神のような声で。
でも俺にとっては――すべてを奪う宣告だった。
セックス。凛と。
嫌だ、と思う反面、その言葉だけでも俺は期待してしまう。
呼吸が、制御できない。
胸がきつく締め付けられて、下半身がじんじんと熱を持つ。
(なんで、こんな……っ)
唇が震える。
目の奥が熱くなる。
涙ではない。
けれど、ほとんど同じような感覚。
「れーちゃん……可愛い。僕の、れーちゃん……」
凛がそう言って、そっと俺の髪を撫でた。
その手つきに、俺の体がほんの少し――安堵するように、委ねてしまったことに気づいたとき。
もうすべてが、遅かった。