僕は、れーちゃんの匂いを覚えている。
小学生の頃、一緒に走って転んだ時の汗の匂い。
制服の袖口に残る柔軟剤と、昼休みに体育館を抜けたときの埃くさい空気。
笑うとき、怒るとき、嘘をつくとき。
そのたびに少しずつ違う“体温”を、僕はずっと感じていた。
αとして普通じゃないって、自覚はあった。
Ωの発情を目の当たりにしても僕は興奮を覚えない。
ただ1人、れーちゃんにだけ僕の全てが反応する。
おかしいことだ。普通じゃない。
……でも、止められなかった。れーちゃんを好きになることを。
れーちゃんがαだったからじゃない。
強くて、格好よくて、誰にでも笑顔を向けるからでもない。
彼の全てが僕を魅了してやまないのだ。
でも、この思いは叶うことがないように思えた。
……れーちゃんが、僕を必要としなかったから。
僕がいなくても、彼はちゃんと立っていられる。
誰とでも親しくなれるし、甘える必要もない。
僕の差し出す優しさなんて、彼にとっては“便利な友達”以上でも以下でもなかった。
いや、彼は“大事な親友”くらいには思ってくれている可能性はある。
けれど、たかが親友程度ではいつかれーちゃんは僕の横からいなくなってしまう。
それが、怖かった。
有能な彼だ。……完全に届かなくなる日が来る。
振り返ってももらえなくなる。
僕のことなんて、忘れてしまう。
そんな未来が、ずっと怖かった。
だから選んだ。
“僕のほうに降ろす方法”を。
れーちゃんを変えるなんて、最初は思ってなかった。
でも、彼があまりにも遠すぎた。
目が合っても、僕を見てない。
肩を並べていても、同じ高さに立っているだけで――その足元は別の道を歩いていた。
れーちゃんが、誰かと「番」になる可能性。
それは、“僕が選ばれない未来”を意味していた。
だったら、自分で“道”を作ればいい。
そう思ったのは、思い返せば高校に入った頃だった。
ちょうど、家の研究室で非公開の治験データを見つけた。
“βやαのフェロモン受容体を一時的に強化する”投薬研究。
最初に興味を持ったのは、純粋に知的な好奇心だった。
けれど、途中からは――違った。
(れーちゃんが、僕の匂いを感じる世界)
その想像が、何より心を潤した。
彼が、自分の意志ではなく“身体”で僕を求める姿。
口では否定しても、肌が、声が、熱が僕を欲しがる世界。
そんな世界だけが、僕を安心させた。
……それって、愛じゃないって思う?
でもね、それでも僕は――れーちゃんが大好きだったんだよ。
だから、ただ“支配”したかったわけじゃない。
苦しめたいわけでも、壊したいわけでもない。
僕がしたかったのは、“れーちゃんを僕の世界に閉じ込めること”。
自由なんて要らない。
選択肢も、友達も、未来も、いらない。
僕が全部与えるから。
僕さえいれば、生きていけるって――そう思ってほしかった。
……ねぇ、れーちゃん。
君は今、初めて僕の匂いを“好きだ”と思ってくれた。
それだけで、もう充分なんだ。
たとえ、その理由が薬であっても。
番のシステムが壊れていても。
君が泣いても、叫んでも。
“僕のそばでしか落ち着けない体”になってしまえば、それでいい。
そうすればもう、誰のことも見なくなる。
僕だけを、見るようになる。
そうすれば――
君は、やっと僕だけのれーちゃんになるんだ。
(……あと一回で、完成だね)
僕は静かに、手元の最後の注射器に視線を落とした。
それはすべてを終わらせ、始めるための、最終の一本。
それは“選択”ではなく、“結論”だ。