空気が、異様に静かだった。
照明は落とされ、ベッド脇のスタンドライトだけが、淡く灯っている。
その薄明かりの中、俺は裸のままベッドに横たわっていた。
布一枚もかけられず、まるで“準備待ち”のように。
部屋の奥のドアが、静かに開いた。
凛が戻ってきた。白いシャツに着替えていて、顔には穏やかな笑み。
でも、その丁寧な仕草が、逆に不気味だった。
まるで今から“誰かを迎える儀式”でも始まるような、そんな静けさ。
「れーちゃん、起きてる?」
そう声をかけられても、体は動かなかった。
目だけを向けると、凛が小さなタオルとボウルを手にしていた。
湯気が、ふわりと立ち上る。
その香りは微かに甘く、どこか懐かしい――いや、媚薬めいた香り。
「少し、身体を拭くね」
俺は何も言わなかった。言えなかった。
抵抗する力はもう残っていない。
ただ、凛の手が俺の太ももに触れた瞬間、心臓が跳ねた。
温かいタオルが肌に触れて、なぞるように拭かれていく。
ゆっくり、丁寧に。優しさすら感じる手つきだった。
けれど――そのやさしさが、今は一番怖かった。
(なんだこれ……なんで、丁寧なんだよ……)
乱暴に扱われた方が、ずっとマシだった。
この、全てを受け入れられるように“整えられる”感じが、
まるで自分が“人間ではない何か”に仕立てられていくようで、
吐き気すら覚えるほど、恐ろしかった。
凛は何も言わずに、腕、胸元、脇腹、足先へとタオルを滑らせていく。
手のひらでクリームをすくって、肌に塗り伸ばすと、
その匂いが――αだった頃の自分とは、明らかに違うものに変わっていた。
「綺麗になったね、れーちゃん」
そう言いながら、凛が俺を座らせて、ベッドのシーツを整える。
再び横にされたその場所は、新しい白いカバーに取り替えられていて、無臭のはずなのに、そこには微かに“凛の匂い”が染み込んでいた。
「……なんのつもりだよ……」
ようやく声が出た。
喉が焼けるように痛む。
凛はベッドの端に腰を下ろして、俺の髪を撫でた。
「ゆっくり休んでほしいなと思って」
「……なんでだよ……次、注射なんだろ……」
「うん。夜になったら、ね」
「じゃあ……なんで、こんなこと……」
凛は少しだけ微笑んで、目を伏せた。
静かに、語るように。
「……大事な夜だからだよ。れーちゃんにとっても、僕にとっても――特別な夜になるから」
それはまるで、式の前段階。
新しい生与えられる前の、準備の時間。
けれど、それは“祝福”ではなかった。
殺される直前の花嫁みたいだ――
そんな錯覚に、喉が詰まる。
「……っ、冗談じゃない……」
唇が震えた。
「こんな、演出みたいなことして……お前、何考えてんだ……」
「怖い?」
凛は静かに問う。
「……怖くないって言ったら、嘘だよね。でも――怖いものに触れて、初めて変われることってあるでしょ?」
「違う……変わりたくなんか……っ……!」
「そうだね、変わらなくてもよかった。れーちゃんはそのままで人生を謳歌出来ただろうね。でも、もう始めてしまったから。だから最後まで、ちゃんと綺麗に、終わらせたいだけ」
まるで、別れの言葉のように聞こえた。
でもそれは違う。
これは――始まりの前の、“終わり”だ。
凛が立ち上がる。
俺の髪をそっと整えて、頬を撫でる。
「次が、最後の一本だよ」
そして、微笑んだ。
「……れーちゃん、よくここまで頑張ったね。ごめんね、狂った僕に付き合わせて。最後まで、責任取るから」
まるで、長い旅の終わりを告げるように。
その声が、妙に優しくて。
だからこそ、俺は――震えた。
次が“終わり”だと分かっているのに、何が終わるのか、本当の意味では分かっていなかった。
ただ一つ分かるのは。
この夜が“最後の自由”だった、ということだけだった。