もう、何時間が経ったのか分からない。
照明は落とされ、壁際のスタンドだけが、やさしく橙色の光を灯している。
部屋は静かだった。凛の姿は見えない。けれど、完全に一人という感じでもなかった。
この空間全体に、やつの匂いが、染みついている気がして――気が狂いそうだった。
真新しいシーツになってから凛はこのベッドに横にはなっていない。
けれど、それでも……俺の身体は感じ取っていた。
シーツに横たわったまま、俺は目を閉じた。
けれど、眠れるわけじゃなかった。
脳がぐらぐらと揺れている。内側から、何かが泡立ってくるみたいに。
身体が熱い。喉が乾いている。指先がびくついている。
でも、いちばんおかしいのは――腹の奥だった。
そこだけが、異様に熱を孕んでいる。
いや、熱だけじゃない。疼き、というには鈍くて、
痒みというには鋭い。
言葉にならない、名もなき衝動が、内臓の奥を這っていた。
(……これが、ヒート?)
目を閉じたまま、何度も深呼吸を試みた。
けれど、鼻の奥に凛の匂いがへばりついていて、息を吸うたびに頭がぼうっとする。
かすかに甘く、どこか懐かしくて、それなのに――猛烈に気持ち悪い。
“違う、これは違う俺じゃない”
何度も、心の中で唱えてみた。
でも、それが空しくなるくらいに、体の中の“何か”は、もう動き始めていた。
気づけば、腰が微かに動いていた。
何をしてるのか、すぐには理解できなかった。
けれど、シーツに押し当てた自分の下半身が、妙に敏感にざわついているのを感じて、ぞっとした。
(俺、何して……っ)
急いで体を起こそうとしたのに、全身が熱で重く、うまく動けなかった。
ふと、太ももの内側から下腹部にかけて、汗なのか、別の何かか、じっとりとした湿気が張りついている。
息を呑んだ。
(違う、俺は……!俺はαだろ!?)
それでも。
何度そう思っても、
もうこの身体は、そうじゃないことを突きつけてくる。
奥の方が、熱い。
凛に触れられた場所だけが、記憶よりも敏感になっている。
シーツの繊維すら、まともに擦れただけで意識が攫われそうになる。
(こんなのおかしい……おかしいんだ……)
誰かに訴えたい。
でもその“誰か”は、もうこの部屋には存在しない。
俺の世界は、凛しかいない場所に変えられてしまっていた。
ベッドの外で、ドアの開く音がした。
ぎし、と軽い足音。
「……れーちゃん。起きてるよね」
静かな声。
予想通りすぎて、吐き気がした。
それでも、動けなかった。
「身体、熱くなってるでしょ」
「……うるさい……」
「ふふ、ねえ、ほら」
凛がベッドの脇に腰を下ろす。
その手にあるのは――見慣れたペン型の注射器。
「いよいよ、9回目だね」
明るい声が、喉を刺す。
「やめろ……今さら……っ」
「ううん。むしろ、今だから、なんだよ」
「もう……変わったんだろ、俺は……」
「まだ“なりかけ”だよ。ここで止めたら、中途半端なまま苦しむよ」
凛は、俺の手首をそっと持ち上げた。
触れられた場所から、心臓の音が届くようだった。
俺の肌が、こいつの手に吸い寄せられていく気がして、無性に怖い。
「ねえ、れーちゃん」
「……っ……」
「このままでもいい。逃げたければ、逃げてもいい。でも、今のままじゃ、れーちゃん、ずっと“中途半端なまま”になる。ずっとこのまま、だよ。苦しいまま」
「……黙れ……」
「怖いのはわかるよ。でも、これは――儀式だから」
凛が、注射器をゆっくり俺の腕にあてる。
冷たい針先が皮膚を押して――
「っ……!!」
一瞬の鋭い感覚。
それと同時に、熱が体内に流れ込む。
それはもう、“薬”というより、何か呪文のようだった。
(……ああ、もう……だめかもしれない……)
思考が、ゆっくりと沈む。
凛の匂いが、やけに濃く感じられて。
鼻から吸う空気が熱く、息を吐くたびに腹の奥がきゅう、と疼いた。
「これで……終わり。最後の一滴まで、入ったから」
凛の手が、注射器を外す。
代わりに俺の額に手を当てる。
「れーちゃん……大丈夫だよ」
「っ……なにが……だいじょ……ぶ、だよ……」
「もう、何も考えなくていい。僕だけを感じて。れーちゃんの番は、僕だけだから」
その声が、やけに遠く聞こえた。
それでも――その遠さに、安心してしまった自分が、
いちばん怖かった。
(……次は、“番”の儀式だ。凛と……)
意識が揺れながら、そう理解した。
この夜が、すべてを終わらせて――
すべてを、始めてしまう。