目覚めた瞬間、全身に違和感がなかったことに、真っ先に気づいた。
重さも、熱も、もうない。
ぼんやりとした焦燥や疼きも、どこかへ消えている。
それなのに、胸の奥だけが、ひどく落ち着かない。
(……終わったのか?)
思考はまだ靄の中にある。
けれど、目の前の景色だけははっきりしていた。
知らない天井ではなかった。
見慣れた――いや、慣らされてしまった部屋。
シーツは白く整えられていて、かすかに洗剤と、あの匂いが残っている。
凛の匂い。無意識に吸い込もうとして、我に返り思わず、鼻を詰まらせるように息を止める。
(……違う。そんなの、嗅いでない)
そう思い込む。
でも、しっかりと覚えてしまっている。
嗅ぎ分けられるくらいに。
起き上がると、足元にたたまれた服が置かれていた。
下着、Tシャツ、スウェット。全てが俺のサイズ。
見覚えのあるブランド。
少し前まで、俺が使っていたものと、同じ質感。
そして、凛のいない部屋。
(……なんで……)
ここまでされて、気づかないほうがどうかしてる。
これは明らかに――用意されている“出口”だ。
周囲を見渡しても、凛の姿はない。
物音も、人の気配も、まるでこの家が空になったかのような静けさ。
(逃げられる……?)
それは考えるまでもなく、頭に浮かんだ。
けれど、その考えは同時に、体の芯をざわつかせる。
(……逃げるって、どこに……?)
そんなこと、考える必要はないはずだった。
俺にはれっきとした家がある。家族がいる。そこに戻ればいい。
逃げたい、逃げなきゃ。帰ればいい、帰らなきゃ。
そう何度も思っていたのに――足が、すぐには動かなかった。
けれど、着替える手は震えていなくて、腕は今までの何日間と違い思い通りに動く。
衣服を身につけて部屋から出る。
靴も、玄関にきちんと揃えられていた。
用意されすぎているほどに。
何も言われていない。
閉じ込められてもいない。
けれど、まるで全部、監視されているような感覚が、背中を這う。
玄関に立ったとき、呼吸が浅くなった。
ドアノブに手をかける。
やけに金属が冷たい。
押せば、開く。そんなことは分かってる。
でも、なぜか――その先が、真っ暗な穴に見えた。
(このまま、出られるのか……?)
誰も止めない。
凛はここにいない。
でも、その「いなさ」が、逆におかしかった。
音もなく用意されて、何も告げられず、まるで出ていけと言わんばかりの整った空気。
(……これは罠だ)
けれど――罠でもなんでもいい。
出さえすればいい。逃げられれば。
それなのに、俺の指先は、まだドアノブを握ったまま動かない。
“外に出る”という行為が、ここまで怖くなるなんて。
この数日、いや、たった三日で、俺はここまで変わってしまった。
凛のいない空気が、息苦しい。
あれだけその存在を拒んでいたのに。
(俺、なに考えてんだよ……)
喉の奥がつまる。
吐きそうなのに、吐けない。
息を吸うと、残っていた微かなフェロモンの残り香が、肺をかすめた。
(こんなの……全部、仕組まれてる……!でも、出てしまえば変わる)
それでも、足は動かない。
開けられるはずの扉が、まるで壁のように感じる。
――そして、その時だった。
「出たいなら、出ていいよ」
後ろから、静かな声。
凛の、声。
振り向けなかった。
背筋を冷たい水で叩かれたような感覚に襲われた。
いつから、そこに――?
「逃してあげる。どこに行っても、探したりしないよ」
その言葉は、まるで甘い罠だった。
声に縋りつきそうになる自分が、怖かった。
(ほんとに……逃げていいのか?)
それが本当なら、俺は――
いや、違う。
それを選ぶのは、俺だ。
凛の言葉を、信じて出るのか。
それとも――ここに残るのか。
残れば、もう戻れない。
何もかも、終わる。
それでも――それでも、俺は。
「逃してあげるよ」
逡巡する俺の耳に凛の声が響く。
その言葉が、本当に“優しさ”から来ているのか、それとも――
ただの演技なのか。
分からなかった。
……いや、分かってる。
凛は、すべて分かって言ってる。
俺の心が、この言葉をどう受け取るかまで計算してる。
わかってて、わかってるからこそ、怖い。
「……ふざけんなよ……」
喉が震えて出た声は、まるで子どものようにかすれていた。
「何が“逃してやる”だよ……お前、俺を……こんなにしておいて……」
ゆっくりと後ろを振り返る。
凛はそこにいた。
白いシャツ。整えられた髪。
まるで何も起こっていないかのように、穏やかに微笑んでいる。
「れーちゃんが望むなら、僕は止めないよ」
「……止めない、って……」
どうして?とまず思った。
俺が、この三日間でどれだけ変えられたか、分かってるくせに。
身体も、心も、もう元には戻れない。
αじゃない。
誰のものでもなかったはずの俺が、今は――
「それにね。……出たって、きっとすぐに戻ってきたくなるよ」
凛が一歩、近づいた。
その一歩が、空気を揺らした。
ああ、結局はそうなるのか。そうだろうな、そうだろうよ。でも。でも、だ!
「……俺は……っ、戻らない、出たら、戻らない……」
「本当に?」
そうだ、と言いたかった。
でも、言えなかった。
なぜなら、今すぐここを出ても、俺は――
この家の外に、何を持っているのかも、思い出せなかったからだ。
仕事? 家族? 友達?
すべてが遠い。
凛に触れられ、凛に与えられ、凛に支配されるこの日々のほうが、ずっと――“現実”みたいで。
「僕はね、全部が終わったられーちゃんのこと、自由にしてあげたかったんだ」
「は……?」
「無理に閉じ込めるのって、番としては最低でしょ。だから最後は、れーちゃんに選んでほしいって思ってた」
おかしい。
選ばせるって……こんな状況で、選択なんかできるはずがない。
でも――
「だから、出ていいよ。ほら、玄関も開いてる」
鍵のかかってないドアは俺の後ろにある。
出るなら、今。
逃げられる。
誰も止めない。
でも、もし俺がそこを超えたら――
「……外、寒いよ?」
凛の声が、また優しく響く。
まるで、俺の中の最後の芯を砕きに来るような声。
「……うるさい……黙れよ……っ……!」
それでも足は動かなかった。
寒さ? そんなの、関係ない。
ただ、心臓が……何故か凛のほうに引っ張られる。
逃げなきゃいけないのに。
出れば、きっと誰かが助けてくれるかもしれないのに。
そこまでわかっているのに、俺の足はまるで動かない。
凛に支配されているわけではない。俺の意志でこの足は動かない。
「……っ……う、あ……っ……!」
涙が、こぼれた。
なぜ泣いているのかも、もう分からない。
ただ、自分が何かを失ってしまったことだけが、確かに胸の奥に残っていた。
ゆっくりと、俺は一歩、凛の方へ足を踏み出す。
また一歩。
そして、もう一歩。
ドアはどんどんと遠ざかる。
それを振り返ることはしなかった。
凛が開けたままにしていた、あの“逃げ道”が、自分で閉ざされた音を、確かに聞いた。
「……れーちゃん、おかえり」
凛の声が、低く響いた。
「違う……違うから……俺は、ただ……!」
「うん、わかってるよ」
凛はただ、笑って、俺の腕をそっと取った。
その体温に、崩れるように縋りついてしまった自分が――何より許せなかった。
「大丈夫。もう、全部終わったから」
「……うそつけ……全部、始まったばっかりじゃないか……」
泣きながら、でも俺は、
凛の腕の中に、自分の居場所を見出していた。