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28 4日目ー静けさの朝

目覚めた瞬間、全身に違和感がなかったことに、真っ先に気づいた。

重さも、熱も、もうない。

ぼんやりとした焦燥や疼きも、どこかへ消えている。

それなのに、胸の奥だけが、ひどく落ち着かない。


(……終わったのか?)


思考はまだ靄の中にある。

けれど、目の前の景色だけははっきりしていた。

知らない天井ではなかった。

見慣れた――いや、慣らされてしまった部屋。

シーツは白く整えられていて、かすかに洗剤と、あの匂いが残っている。

凛の匂い。無意識に吸い込もうとして、我に返り思わず、鼻を詰まらせるように息を止める。


(……違う。そんなの、嗅いでない)


そう思い込む。

でも、しっかりと覚えてしまっている。

嗅ぎ分けられるくらいに。

起き上がると、足元にたたまれた服が置かれていた。

下着、Tシャツ、スウェット。全てが俺のサイズ。

見覚えのあるブランド。

少し前まで、俺が使っていたものと、同じ質感。

そして、凛のいない部屋。


(……なんで……)


ここまでされて、気づかないほうがどうかしてる。

これは明らかに――用意されている“出口”だ。

周囲を見渡しても、凛の姿はない。

物音も、人の気配も、まるでこの家が空になったかのような静けさ。


(逃げられる……?)


それは考えるまでもなく、頭に浮かんだ。

けれど、その考えは同時に、体の芯をざわつかせる。


(……逃げるって、どこに……?)


そんなこと、考える必要はないはずだった。

俺にはれっきとした家がある。家族がいる。そこに戻ればいい。

逃げたい、逃げなきゃ。帰ればいい、帰らなきゃ。

そう何度も思っていたのに――足が、すぐには動かなかった。

けれど、着替える手は震えていなくて、腕は今までの何日間と違い思い通りに動く。

衣服を身につけて部屋から出る。

靴も、玄関にきちんと揃えられていた。

用意されすぎているほどに。

何も言われていない。

閉じ込められてもいない。

けれど、まるで全部、監視されているような感覚が、背中を這う。

玄関に立ったとき、呼吸が浅くなった。

ドアノブに手をかける。

やけに金属が冷たい。

押せば、開く。そんなことは分かってる。

でも、なぜか――その先が、真っ暗な穴に見えた。


(このまま、出られるのか……?)


誰も止めない。

凛はここにいない。

でも、その「いなさ」が、逆におかしかった。

音もなく用意されて、何も告げられず、まるで出ていけと言わんばかりの整った空気。


(……これは罠だ)


けれど――罠でもなんでもいい。

出さえすればいい。逃げられれば。

それなのに、俺の指先は、まだドアノブを握ったまま動かない。

“外に出る”という行為が、ここまで怖くなるなんて。

この数日、いや、たった三日で、俺はここまで変わってしまった。

凛のいない空気が、息苦しい。

あれだけその存在を拒んでいたのに。


(俺、なに考えてんだよ……)


喉の奥がつまる。

吐きそうなのに、吐けない。

息を吸うと、残っていた微かなフェロモンの残り香が、肺をかすめた。


(こんなの……全部、仕組まれてる……!でも、出てしまえば変わる)


それでも、足は動かない。

開けられるはずの扉が、まるで壁のように感じる。

――そして、その時だった。


「出たいなら、出ていいよ」


後ろから、静かな声。

凛の、声。

振り向けなかった。

背筋を冷たい水で叩かれたような感覚に襲われた。

いつから、そこに――?


「逃してあげる。どこに行っても、探したりしないよ」


その言葉は、まるで甘い罠だった。

声に縋りつきそうになる自分が、怖かった。


(ほんとに……逃げていいのか?)


それが本当なら、俺は――

いや、違う。

それを選ぶのは、俺だ。

凛の言葉を、信じて出るのか。

それとも――ここに残るのか。

残れば、もう戻れない。

何もかも、終わる。

それでも――それでも、俺は。


「逃してあげるよ」


逡巡する俺の耳に凛の声が響く。

その言葉が、本当に“優しさ”から来ているのか、それとも――

ただの演技なのか。

分からなかった。

……いや、分かってる。

凛は、すべて分かって言ってる。

俺の心が、この言葉をどう受け取るかまで計算してる。

わかってて、わかってるからこそ、怖い。


「……ふざけんなよ……」


喉が震えて出た声は、まるで子どものようにかすれていた。


「何が“逃してやる”だよ……お前、俺を……こんなにしておいて……」


ゆっくりと後ろを振り返る。

凛はそこにいた。

白いシャツ。整えられた髪。

まるで何も起こっていないかのように、穏やかに微笑んでいる。


「れーちゃんが望むなら、僕は止めないよ」

「……止めない、って……」


どうして?とまず思った。

俺が、この三日間でどれだけ変えられたか、分かってるくせに。

身体も、心も、もう元には戻れない。

αじゃない。

誰のものでもなかったはずの俺が、今は――


「それにね。……出たって、きっとすぐに戻ってきたくなるよ」


凛が一歩、近づいた。

その一歩が、空気を揺らした。

ああ、結局はそうなるのか。そうだろうな、そうだろうよ。でも。でも、だ!


「……俺は……っ、戻らない、出たら、戻らない……」

「本当に?」


そうだ、と言いたかった。

でも、言えなかった。

なぜなら、今すぐここを出ても、俺は――

この家の外に、何を持っているのかも、思い出せなかったからだ。

仕事? 家族? 友達?

すべてが遠い。

凛に触れられ、凛に与えられ、凛に支配されるこの日々のほうが、ずっと――“現実”みたいで。


「僕はね、全部が終わったられーちゃんのこと、自由にしてあげたかったんだ」

「は……?」

「無理に閉じ込めるのって、番としては最低でしょ。だから最後は、れーちゃんに選んでほしいって思ってた」


おかしい。

選ばせるって……こんな状況で、選択なんかできるはずがない。

でも――


「だから、出ていいよ。ほら、玄関も開いてる」


鍵のかかってないドアは俺の後ろにある。

出るなら、今。

逃げられる。

誰も止めない。

でも、もし俺がそこを超えたら――


「……外、寒いよ?」


凛の声が、また優しく響く。

まるで、俺の中の最後の芯を砕きに来るような声。


「……うるさい……黙れよ……っ……!」


それでも足は動かなかった。

寒さ? そんなの、関係ない。

ただ、心臓が……何故か凛のほうに引っ張られる。

逃げなきゃいけないのに。

出れば、きっと誰かが助けてくれるかもしれないのに。

そこまでわかっているのに、俺の足はまるで動かない。

凛に支配されているわけではない。俺の意志でこの足は動かない。


「……っ……う、あ……っ……!」


涙が、こぼれた。

なぜ泣いているのかも、もう分からない。

ただ、自分が何かを失ってしまったことだけが、確かに胸の奥に残っていた。

ゆっくりと、俺は一歩、凛の方へ足を踏み出す。

また一歩。

そして、もう一歩。

ドアはどんどんと遠ざかる。

それを振り返ることはしなかった。

凛が開けたままにしていた、あの“逃げ道”が、自分で閉ざされた音を、確かに聞いた。


「……れーちゃん、おかえり」


凛の声が、低く響いた。


「違う……違うから……俺は、ただ……!」

「うん、わかってるよ」


凛はただ、笑って、俺の腕をそっと取った。

その体温に、崩れるように縋りついてしまった自分が――何より許せなかった。


「大丈夫。もう、全部終わったから」

「……うそつけ……全部、始まったばっかりじゃないか……」


泣きながら、でも俺は、

凛の腕の中に、自分の居場所を見出していた。



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