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29 籠の外、掌の中

玄関が閉まる音を、僕は静かに待っていた。

扉の向こう、れーちゃんは迷っていた。

きっと心の中では何十回も自分に問いかけていたはずだ。

「出るべきか」「ここに残るべきか」「これは罠じゃないか」と。

でも、あの子は――戻ってきた。

期待通りに。

そして、僕の腕の中で泣いた。

その震える肩をそっと抱きしめながら、心の中では深く安堵した。

これで、もう本当に逃げられない。

“選ばされた”わけじゃない、“自分で選んだ”と思わせることが、何より重要だった。

れーちゃん、玲央にとって、僕はもう檻じゃない。

“帰る場所”だ。

どれだけ歪んでいても、それが正しく見えるように仕込んできた。


その日から数日。


れーちゃんは、少しずつ体調を戻していた。

発情は完全に落ち着き、フェロモンの波も収まった。

完全なΩとしての身体が、ようやく安定しはじめた証拠。

僕は、そのタイミングを待っていた。


「れーちゃん、体の調子はどう?」

「……別に、普通」


素っ気ない言葉。

でも、目がちゃんと僕を見ている。

焦点が合っている。

いい傾向だ。


「ならさ。もうそろそろ、外に出てみない?」

「外って……」


れーちゃん眉をひそめる。

僕は、笑った。


「芸能の仕事……戻ってみたくない?」

「……え?」


反応は素直だった。

少し戸惑って、でも――期待の色を含んでいる。


「もちろん、無理はしないで。もし辛かったら、すぐにやめてもいい。でも、あの場所で輝いてた君を、また見てみたいって思う人は、たくさんいると思うよ」

「……なんで、そんなこと……」


理由を聞きたがるのは、まだ“自分の意思”がある証拠。

けれど、それはもう、僕の誘導の範囲にある。


「れーちゃんが、後悔しないように」


そう言えば、れーちゃんはそれ以上、何も言えなかった。

もちろん、すでに環境は整えている。

もとより僕はれーちゃんの環境を壊し切ってはいない。

今の事務所には体調不良で休むことを伝えた。

それに必要な健康診断書も用意してある。

しかし念には念を入れて、所属事務所は父にお願いをして買い取ってもらった。

父は非常に合理主義な人間なので資料を揃えて利があると説明すれば、早かった。

すべて、うちの会社の関連企業が水面下で調整済み。

何より――れーちゃんのマネージャーは、僕が選んだ。

若くて、気が利いて、優しくて、でも何よりも“僕に忠実”な人間。

僕の目が、れーちゃんのすぐそばにある状態を保つためには、最適だった。


「事務所にもね、ちゃんと話はしてあるから大丈夫だよ。マネージャーさんは変わるみたいだけど」

「……なんか、お前……用意良すぎて、気味悪いんだけど」

「たまたまだよ。偶然」


嘘ではない。

なにせ、最初からそのために動かしていたんだから。

れーちゃんは、どこか引っかかるような顔をしながらも、結局は復帰することに決めた。


体調を慮って、簡単な撮影から始めた。

周囲の反応も悪くなかった。

少し痩せたこと、雰囲気が変わったことも、“人間としての深み”に変換されて、評価された。

知名度は学生の頃よりも格段に上がっている。

それをれーちゃんの親族も素直に喜んでいた。


「なんで……なんで、俺、こんなにうまくいってるんだろうな……」


その呟きを、帰ってくるたびに何度か聞いた。

――それはね、れーちゃん。

全部、“うまくいくように”仕組まれてるからだよ。

カメラの角度、照明の色、SNSの空気……なにもかもが演出されてる。

君が一歩ずつ“自分で選んでいる”と思えるように。

でも、すべては僕が用意した舞台。

君がたとえ表舞台に立とうとも、君の舞台袖には、いつも僕がいる。

ある晩、れーちゃんがシャワーから出てきたとき、僕はベッドの上で小さな箱を開いていた。

中には――指輪。

シンプルなプラチナのペアリング。

れーちゃんが一瞬で警戒の色を見せたのが、可愛かった。


「……何、それ」

「君の薬指、ずっと気になってたんだ」

「気になってた、って……」

「まだ空いてるのが、不自然だなって。番になったのに」

「……っ……」


その言葉に、れーちゃんは少し肩を揺らした。

僕はその手を取って、静かに左手薬指にはめる。


「お揃いだよ」

「……なんで……なんで……」

「僕ら、夫婦でしょ?」

「……そ、れは……でも……」

「君は可愛い、可愛い僕のお嫁さん」


指に触れた瞬間、少しだけ僕の指が震えた。

ダメだな、ここまで計画通りだったのに。

言葉が、少し詰まった。


「……ずっと、こうしたかった」


ほんの一瞬、目が合う。

れーちゃんの瞳に映る僕が、いつもより少し、弱く見えた気がした。

指輪は、冷たかった。

でも、れーちゃんの指の温度ですぐに温まっていった。

その震えは、拒絶か、受容か。

どちらでも構わない。

もうこの手は、僕のものだ。

だから僕は、そっとその指を持ち上げて、口づける。

この世の中に、これ以上確かなものはないと思えるほど、

甘く、静かに――確かに、れーちゃんはそこにいた。

掌の中で、微かに震える。

けれど、それでも逃げなかった。戸惑いは大きいけど、僕の手から逃げない、可愛い君。

それで、もう充分だ。



永遠に、ずっと、一緒に。





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