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最終話 幸福の選択

目が覚めた時、最初に感じたのは“静けさ”だった。

窓の外は明るく、陽の光が差し込んでいる。

代わりに、リビング側から微かに食器の触れる音がした。


(……いない)


凛が、隣にいない。

その事実が、妙に心を締めつけた。

目覚めたことに安堵するよりも先に、空白が胸をざわつかせる。

起き上がって、ゆっくりと足を床に下ろす。

服は着せられていた。リラックスした部屋着と、足元には柔らかいスリッパ。

“整えられている”その事実に、少しだけ肩の力が抜けた。

廊下を抜けて、ダイニングへ向かう。

テーブルの向こう側、陽の光を受けながら、凛が座っていた。

静かにカップを口に運び、何気ない表情でこちらを見る。


「おはよう、れーちゃん」


その一言に、喉の奥がきゅっと締まる。

声が、思った以上に、嬉しかった。


「……おはよう」


自然と、椅子に腰を下ろしていた。

凛はすでに朝食を整えていて、俺の前には温かい紅茶とスープ。

トーストには、ほんの少し甘いジャムが塗られていた。

俺の好みそのままの食事。


「今日の撮影、午後からだって。無理しないスケジュールにしてあるみたいだよ」」


そう言って、凛はスマートフォンの画面を俺に見せる。

そこには、マネージャーから送られてきた今日の予定が表示されていた。


「……ああ、これ。俺のにも届いてた」


画面をスクロールしていく。

スタジオ入り、撮影、軽いインタビュー――

そして、最後の予定の行に凛の指が触れた。


『19:00 迎え(凛)』


「お迎えに行くね」


言われた瞬間、心臓がどくんと跳ねた。

おかしい、そんなはずないのに。

ただの“予定の一部”だと分かっているのに、その一言が妙に沁みた。


「……わざわざ、来なくてもいいのに」

「でも、行きたいから」

「……勝手なやつだな」

「うん、そうだね。でも、れーちゃんは僕の“番”だから。僕の特権だよ」


そう言って、微笑まれる。

その笑みがあまりにも自然で――だからこそ、どうしようもなかった。

テーブルの向こう、カップを両手で包む凛の手元に視線を落とす。

左手の薬指には、あの日、俺の指に滑り込ませたのと同じリングが光っていた。


(本当に……もう、戻れないんだな)


紅茶を口に含む。

香りが鼻を抜けて、じんわりと胸が温かくなる。


「……なあ、凛」

「うん?」

「俺、たぶん――いや……まだ、お前のこと全部許してないからな」


そう口に出すと、凛は少しだけ目を細めて笑った。


「うん。分かってるよ。でも、れーちゃんが許さなくても、僕はずっと一緒にいるから」

「……バカか、お前……」


呆れるように言って、それでも俺は、カップを置いた。

視線が凛に吸い寄せられる。

ああ、やっぱり俺は――


(きっと、あのままだったとしても――)


アルファのままでも、凛と離れられなかった。

仕事に追われ、遠ざかるたびに、なぜか心のどこかが引き裂かれるようで。

友達なんかじゃ足りなかった。けど、恋人なんて呼ぶには不自然すぎて。

けれど、今――


「これも……まあ、悪くはないのかもな」


ぽつりと呟いた言葉は、思っていたよりずっと軽かった。

されたことは、全部が正しいわけじゃない。

心が引き裂かれるような日も、惨めに感じた朝もあった。

でも、今。

目の前で笑ってるこの男を見て、“嫌い”にはなれないと思った。


(だったら――もう、十分なんだ)


そっと左手を見下ろす。

指に光るリングは、俺の“過去”とはまったく繋がらない形をしていた。

けれど、不思議と馴染んでいた。


「……ねえ、れーちゃん」

「なんだよ」

「夕飯は何がいい?」

「……肉じゃが」


小さく笑いながら、俺は手を伸ばした。

――これが俺の、“幸福のかたち”なんだろう。

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