夕食も終えて、就寝準備も終えた。
扉を閉め、自室で一人きりになると、やけに静かに感じる。
「はぁ……」
深く息を吐いて、額を手で覆った。
──たかがキスひとつで、どうかしてるな。
護衛対象に不意打ちを食らっただけだ。
あいつはまだ若いし、年下特有の戯れだろう。
それくらい、さらりと流せばいい。
そうださらりと……
「……流せてないから困ってるんだが」
自分で言って、自嘲気味に苦笑する。
唇に残る感触が消えない。
「恋人に格上げでいいですよ、か」
冗談にしては、目が本気だった。
俺にとってシリルは護衛対象だ。それをそんなふうに見るべきじゃない。
……そんなこと、わかっている。
けれど──
「まったく、俺はどうしてこんなに動揺してるんだ……」
枕に背を預けて、窓の外を見る。
王都の夜空は晴れ渡り、月が静かに光を落としていた。
シリルは、リアムによく似ている。
けれど、シリルはシリルだ。
リアムへの想いとは、決して同じものではない。
そう言い聞かせても、いや、言い聞かせれば聞かせるほどに目を閉じると、銀色の髪とまっすぐな瞳が浮かぶ。それはリアムではなくシリルだ。
──まさか、俺はとっくに……?
「……寝るか」
……
思考を振り払うようにして、ベッドへと横になり俺は目を閉じた。
けれど、その夜はやけに長く感じられた。
翌朝。
いつものように食堂に向かうと、すでにシリルとセシリアが席に着いていた。
「おはようございます、アレックス様」
「……おはよう」
昨日のことが頭をよぎるが、シリルは普段と変わらない様子で微笑んでいる。
むしろ、少しだけ機嫌がいいように見えるのは気のせいだろうか。
「アレックス様、よく眠れました?」
シリルが自然にそう問いかける。
「……まあ、な」
「僕はとてもいい夢を見ましたよ」
「……そうか」
そこから先の言葉が続かない。
「ふーん、お兄様、なんだかご機嫌ね?」
セシリアが紅茶を飲みながら、じっと兄を見つめる。
「別に、普通だろう?」
「いつもより柔らかい顔してますよ?」
「気のせいだよ」
シリルがさらりと流す。
俺は割と悩んでいるだけに、その余裕が妙に気に障った。
かといって年下の子どもに当たるほどではないが。
「今日はどこか出かけるんですか?」
セシリアが無邪気に尋ねると、シリルがこちらを見てくる。
「アレックス様が付き合ってくれるなら、どこでも」
「今日は出かけない。今日はちゃんと魔導士としての訓練をしろ」
「えー、それは残念」
わざとらしく肩をすくめるシリルに、セシリアがすかさず茶々を入れた。
「お兄様、やっぱりデートだったんじゃないですか?」
「さあね」
「ふふ、でもアレックス様が相手なら、デートのほうが良かったんじゃ?」
「セシリア、黙ってろ」
「はーい」
セシリアは素直に返事をしつつ、にやにやと笑っていた。
それを見て、シリルが軽く肩をすくめる。
「ほら、妹にまでからかわれてますよ?」
「誰のせいだと思ってる」
「それは……アレックス様が素敵だからですかね?」
その言葉にどきりとしてしまい、一瞬で、それを打ち払うように目を閉じた。
「……言ってろ」
俺はそれだけしか返せなかった。
……まったくもって、シリルには困ったものだ。
※
さて。
朝食を終えてもシリルが俺に付きまとってくる。
「なんでついてくるんだ」
「まだ訓練がありますし、それにアレックス様が傍にいると落ち着くんですよ」
「……俺はお前の保護者じゃない」
「分かってますよ。だって……」
そこで言葉を切り、シリルは俺の前に立つ。
そして手を伸ばして俺の顎に指先を触れさせた。
「保護者とはキス、しないでしょう?」
「おまえ……」
後から思えば、俺の行動は軽率だったんだと思う。
けれど、その時は頭に血が上ってしまい──気が付けばシリルの両腕を掴み壁に押し付けていた。
シリルは目を大きく見開き、俺を見つめている。
「……大人をからかうには覚悟はあるんだろうな?」
その耳に唇を寄せて、声を響かせる。
そう言ったものの、自分でもわかるほど、声がかすかに震えていた。
理性がギリギリで踏みとどまっている。
近すぎる距離。触れてしまえば、後戻りはできない。
──こいつはそれをわかっているんじゃないか……?
シリルは小さく息を飲んだが、シリルの瞳はまっすぐで、一切怯えていなかった。
「勿論」
真正面からそう言われて、俺は言葉に詰まる。
すると、今度はシリルが近づいた俺の顔に、唇に、自身の唇を添わせて俺の下唇を柔らかく食んだ。
「……覚悟がないのは、アレックス様のほうでしょう?」
そう、俺の唇の上で言って今度は、ちゅ、と音を立てて俺の唇を軽く吸って離れる。
……どうやら俺は、開けてはいけない扉を完全開放してしまったらしい。
唇に残る柔らかな感触が、脳内で反響している。
耳元で囁かれた「覚悟がないのは、アレックス様のほうでしょう?」という言葉が、離れない。
シリルは壁際に押し付けられたまま、俺を見上げて微笑んでいる。
息を吸うだけで、シリルの体温を感じてしまいそうなほど距離が近い。
──これはまずい。
わかっているのに、シリルの唇を見てしまう自分がいる。
「シリル……お前……」
声を出した瞬間だった。
「アレックス様!兄様!こんなところで何してるんですか?」
突然、廊下の向こうからセシリアの声が響く。
「っ……!」
俺は反射的にシリルから身を引き、咳払いをして距離を取った。
シリルもすぐに表情を切り替え、何事もなかったかのように整った顔で妹を迎える。
「セシリア、何か用?」
「ううん、別に。でもお兄様、アレックス様に何かしようとしてたでしょ?」
セシリアがじっと兄を見上げる。
「何もしてないよ」
「嘘だぁ。アレックス様の顔が赤いもの」
「……気のせいだ」
言葉を絞り出す俺に、セシリアがじっと疑わしげな目を向けてくる。
「んー……?」
セシリアは俺とシリルの間を行き来する視線を交わしながら、何かを考えている様子だったが──やがてニコッと笑った。
「まぁいいや!お母様がお呼びですよ、アレックス様」
「リアムが?」
「うん、執務室にいるって」
「わかった。すぐに行く」
助かった。そう思いながらセシリアの言葉に頷くと、シリルが名残惜しそうにこちらを見ていた。
「アレックス様、母上とのお話が終わったら……また話しましょうね」
「……ああ」
その穏やかな声に、妙な緊張感を残したまま俺は執務室へと向かった。